名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
大学の今を自由な立場で綴っていきます。

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 私たち人間の身体がさまざまな伝達物質によってうまく制御されているように、植物にも同様の仕組みがあるはず。それを解き明かそうというきわめて基礎的な研究から、植物の新品種の開発をめざすベンチャー企業が生まれた。宇宙の始まりのビッグバンに迫るなどの加速器実験に携わっていた物理学者は、そこから生まれた技術を他で生かそうと会社を興した。せっかくの新技術を企業が実用化しないなら、自分たちで引き受けようと起業した工学研究者もいる。大学の最先端の研究室から社会へ、その道はどのようにして切り開かれたのだろう。

 名古屋大学生命農学研究科の野田口理孝准教授の研究をごく簡単にいうと、「植物は決しておバカさんではないことを物証で明らかにすること」だ。自分では動くこともできない植物が高等な生き物であるとは、教科書にも書かれていない。しかし、異物を排除する免疫など動物に備わった仕組みは、メカニズムは違うものの、植物にも同様に備わっていることがわかってきた。植物は動物より単純な生物、では決してない。
 ただ、植物の体内でさまざまな制御を行っている物質であるホルモンは10種類ほどしか知られていない。それでは「つらい」「育ちたい」といった大雑把なメッセージにしかならず、具体的にどこがどうつらいのか、どう育ちたいのかはわからない。そうした細かい情報を伝える物質があり、その情報を受け取ってきめ細かい制御が行われているはずなのだ。
 私たちの体内には、酸素が足りないなどの情報を伝える数多くの分子があることが知られているが、遺伝情報が解読された21世紀に入り、植物でもそうした情報を伝える分子のいわばボキャブラリーがあることがわかってきた。それが解読されたら、植物が何を考えているのか、何を必要としているのかがわかる。いわば植物と対話できるようになり、世界は変わる。そう野田口さんはいう。

タバコの近縁種である白い花のペチュニアを赤紫色のセンニチコウに接木した標本を
手にする野田口理孝准教授

 その研究に使い、起業につながったのが、接木という古くからある方法だ。ある植物の根の部分で作らせた物質を接木した別の植物に運び、そこでの働きを調べる。ブレークスルーとなったのは、普通は同じ仲間でないと接げないのに、タバコはどんな相手とでも接木ができることを見つけたことだった。米国留学中に研究が行き詰まって途方に暮れていたとき、実験材料のタバコがあったのでダメ元で接いでみたところ、他の植物と難なく接木ができたのだ。2000年の歴史を持つ接木の新たな可能性が花開いた瞬間だった。タバコを間にはさめば、ほとんどの植物を接ぐことができる。現在、根が強くて実がたくさんつく、そんなトマトが接木で作られているが、トマト同士に限らない。乾燥に強い根を使って砂漠で育つようにするなど、さまざまな組み合わせで新しい植物を作ることが原理的には可能だ。
 さらに、タバコの接木を通じて遺伝物質であるR N Aが運ばれることもわかった。これは、遺伝情報を書き換えるゲノム編集ができることを意味する。よりよい性質を持った種子を作らせる、つまり、効率的に新しい品種が作れる可能性が出てきたのだ。
 野田口さんは以前から、地球の温暖化がもたらすさまざまな問題に植物科学者として貢献したいという思いを持ち続けてきたという。そうした中で、「新品種の開発で食料問題に寄与できる可能性のある技術に出合ってしまった」。なんとしてでも、世に出したい。最初は産学連携を考えたが、こうした技術開発に取り組もうという企業はなく、自分でやるしかないと、2017年にグランドグリーン社を設立した。
 同社では、新品種の育成に加えて、接木を自動で行う装置の販売を柱に据えている。会社として続けていく以上、確実な収入源が必要だと考えたからだ。学内の3Dプリンターで試作機を作り、同社で実用機を開発、今月から売り出すという。経営を担うのは、京都大学時代の研究室の後輩である丹羽優喜さんだ。京大の助教のポストから同社の社長になった。
 野田口さんは現在、経営からは離れ、自らの研究に取り組む。接木は植物が傷を治す能力を利用したもので、普通は他の植物を拒絶するが、なぜタバコだけは他種を受け入れるのか。植物の本質に迫ると同時に、応用の道も広がりそうなテーマにも力を入れている。

 振り返れば、研究者としての身分が不安定な中、この技術を生かすには誰かに使ってもらうしかないと思い詰めたこともあったそうだが、2015年になって学術研究・産学官連携推進本部による起業支援が本格化、その応援を得て起業に向けて大きく動き出したという。
 同本部の知財・技術移転グループのリーダーを務める鬼頭雅弘教授はパナソニックで長く知財の仕事をした後、2014年に名大に転じた。名大工学部の出身で、大学院時代には赤﨑勇教授の研究室で青色L E Dの研究に取り組んだ経験を持つ。鬼頭さんによれば、名大でベンチャーファンドや起業家教育などの支援が始まった2015年には、ベンチャーの設立数は前年の1件から10件へと一挙に増えた。近隣の大学と共同で学生の起業支援を行うTongali(とんがり)プロジェクトなどの活動も活発化し、学生の企業も増えている。

学術研究・産学官連携推進本部の鬼頭雅弘教授。
赤﨑研究室では天野浩教授の後輩だった。

 同本部で鬼頭さんのもとでスタートアップ企業の支援をしていた鈴木孝征さんが大学を辞めて社長になったのも、2015年に設立されたベンチャーの一つだった。名大農学部で分子生物学の博士号を取得し、世界初の研究成果をめざす研究者を続けるか、あるいは遺伝子研究を病気の治療などに役立てる道を選ぶか、考えた結果、研究成果と社会をつなぐ仕事をしようと名大に就職した。米国の大学に留学中、技術移転が進む過程を間近で経験したことが大きかったという。
 起業支援をする中で出会ったのが、20年以上にわたって電子ビームの研究を続けていた西谷智博さんだ。名大で素粒子物理学の博士課程を終え、原子力研究開発機構で高エネルギー加速器実験に使う電子線発生装置の研究をしていた。だが、加速器研究の世界でこの技術は日陰の存在でしかなく、研究者としてポストを得るのは難しい。そこで、電子ビームを電子顕微鏡などの産業に応用する道を選び、理化学研究所を経て名大に戻って、「半導体フォトカソード」という半導体を使って電子ビームを出す装置の研究を続けた。青色L E Dが電子を光に変えるのとちょうど逆で、光を当てると電子が飛び出す。アインシュタインがノーベル賞を受賞した光電効果と呼ばれるものを利用している。
 電子ビームを出すために半世紀にわたって使われてきたのは、金属から熱などによって電子をひき出す方法だ。電子が出る場所やタイミングの制御はほとんどできないが、西谷さんの方法だと、電子線を素粒子レベルまで厳密に制御できる。現在の電子顕微鏡では不可能な、液中で動き回るタンパク質の微細構造をとらえることもできるし、電子線を使った微細加工などの精度が格段に向上する可能性もある。
 「実用化されたら、世界は変わる」。西谷さんにこう言われても、バイオが専門の鈴木さんにはよくわからなかったが、特許などで新規性がすぐに認められたことなどからその将来性を確信したという。

フォトエレクトロンソウル社では鈴木孝征さん(右)が社長、西谷智博さんは
技術担当の役員だ。完成した装置を前に。

 まず、企業との連携を考えた。しかし、企業は興味を示すものの、それ以上にはなかなか進まない。電子線を利用する企業にとっては長年の実績がある中核技術なので、簡単には変えられないのだ。自分たちでやるしかない、となった。新エネルギー・産業技術総合開発機構(N E D O)が始めた事業化トレーニングプログラムに2人で参加し、その第1回起業コンテストで最優秀賞になった。シリコンバレーで投資家たちにプレゼンする機会が与えられ、そこでの手応えに自信を深めた。
 それからまもなく会社を設立した。社名はフォトエレクトロンソウル、「光電子」に「魂」がこめられている。

 西谷さんは、世界初の新技術が可能になった背景には、名大の伝統的な強みがあるという。名大理学部の素粒子物理学分野での半導体フォトカソードを使った電子源の研究は、ライバルである米国のスタンフォード大学との激しい競争を30年にわたってリードしてきたのだ。名大を中心に周辺の企業も含めて、半導体やレーザー、真空などさまざまな分野の優れた要素技術を結集できたおかげだ。
 半導体の材料として窒化ガリウムが望ましいと考えたが、その専門家も身近にいた。同じ材料で青色L E Dを開発した天野浩教授だ。紹介されて訪ねたところ、快く協力してくれた。天野さんたちがノーベル賞を受賞するより前のことだ。
 恩人もいる。細々と研究する中で唯一、日立製作所フェローの外村彰さんが「面白いからぜひ続けるように」と励まし続けてくれた。電子線ホログラフィーと呼ばれる特別な電子顕微鏡を開発して量子の不思議な現象を観測、ノーベル賞候補と言われていた物理学者だ。電子顕微鏡などに使うためには、加速器用では小さな家ほどもあった装置を格段に小さくすることが必要だったが、産業化するにはもっと小さくなければと要求は厳しかった。外村さんを驚かせたい一心で装置の小型化に取り組んだが、なんとか成功したのは外村さんが亡くなって1年後の2013年だった。
 名大はかつて、上田良二教授を中心とする電子顕微鏡研究の世界的なメッカだった。外村さんも上田さんのもとで博士号を得た。カーボンナノチューブで知られる飯島澄男名城大終身教授もメンバーの1人だ。
 西谷さんの新技術は、名大の電子顕微鏡の研究の歴史に新たな1ページを付け加えることになるのかもしれない。

上田良二博士は1942年、名大理学部の創設と同時に東大から赴任、多くの人材を育てた。名古屋大学博物館には自ら設計した電子回折装置が展示されている。

 野田口さんと西谷さんが理学分野の若い研究者であり、それぞれ初めての起業だったのに対し、未来材料・システム研究所の宇治原徹教授は半導体デバイスを専門とする工学者で、これまで産学連携の経験を積み、すでに材料分野でベンチャーも興したベテランだ。しかし、結論は彼らと同じ、「自分でやるしかない」だった。2019年11月、アイクリスタル社を設立した。
 「大学の基礎研究の成果を企業と共同研究して製品化する」のはもはや古いモデルになってしまったという。企業が重視するのは今や、技術の良し悪しではなく採算性だ。予想される売り上げが会社の規模から考えて小さいと、あえて開発しようとしない。つまり、大学で新しい技術を開発しても、受け取り相手がいなくなってしまったのだ。海外の企業が積極的に新技術への挑戦を続ける中、日本から新しいものを出そうと思ったら、大学の側がもう一歩踏み込むしかない。
 めざすのは、パワー半導体の材料として需要が急激に伸びているシリコンカーバイドの高品質結晶だ。従来とは違う方法で作ることに成功し、次の課題は大きくすることだったが、企業は共同研究しようとはしない。
 だが、願ってもない援軍が現れた。人工知能、A Iだ。材料の開発にはとかく時間がかかるが、数時間がかりのシミュレーションもA Iなら1秒かからない。1インチから4倍の大きさにするのに普通なら20年かかるところ、数年でできた。その先は費用も必要なので、ベンチャーで出資を募って市場に出すまでの開発を進めることにした。
 経営を担う格好の人材にも恵まれた。教育学部出身で、ベンチャーでの成功体験を持つ牧野隆広さんだ。介護施設など福祉系の事業を、マンション経営などの別の事業の収益で行うモデルを展開している、ちょっと異色の経営者であり、名大の客員教授でもある。企業の人に名大に面白い先生がいると紹介されて宇治原さんと出会い、技術を世に出すまでを一緒にやろうと意気投合、社長を務めることになった。
 宇治原さんは「なんとか成功させて、新技術の社会実装の方法論を作りたい」と話す。ベンチャーであげた収益を大学の基礎研究に回す、そんな循環もめざしている。後に続く人が成功することが本当の成功だという。一緒にやりたいと、学生たちも参加した。博士課程2年の畑佐豪記さん、修士課程1年の高石将輝さんだ。ぜひ経営も学びたいと意気込む。

アイクリスタル社の創設メンバーである宇治原徹、牧野隆広、高石将輝、畑佐豪記の各氏(左から)

 A Iとの出合いは偶然だった。大学の仕事で情報学研究科の武田一哉教授とともにベトナムへ数日出張する機会があり、A Iやビッグデータに精通した武田さんからその意味についてたっぷり話を聞くことができたのだ。A Iのスピード感を目の当たりにし、材料という、いわば重い研究に情報系の軽さを持ち込めば画期的なことができるはず、そう確信した。研究室の学生らとA Iの勉強を始め、材料研究に応用してその力を実感した。
 異分野と出合い、さらに学ぶうえで、名大の規模がちょうどよかったと宇治原さんは振り返る。武田さんの周辺では、自動運転で世界をリードする「ティアフォー」を始め、学生たちもI Tベンチャーを設立している。「学生に負けられません」と宇治原さんは笑いながら話す。

 これらのベンチャーには、共通点があることがわかる。まず、「世界を変える」と確信する自らの技術を世に出すには「自分がやるしかない」。そんな情熱がある。そして、その情熱に応え、技術の可能性を信じて支えようという仲間がいる。皆、息もぴったりだ。西谷さんは大学を離れて会社に専念する道を選んだが、それぞれの関わり方で、世界を変えるまで頑張ってほしい。
 3Dプリンターを最初に考案した名大O Bの小玉秀男さんが「実用化にこぎつけた米国人研究者には、なんとしてでも実用化するという強い気持ちがあったのだろう」と話していたのを思い出す。そうして誕生した3Dプリンターは世界を変えた。技術の可能性を信じて強い気持ちを持ち続けることの大切さを教えてくれる。
 大学にはまだまだ、世界を変える可能性のあるタネが眠っているに違いない。そうしたタネもぜひ、花開いてほしいと思う。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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