名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
大学の今を自由な立場で綴っていきます。

RSSを購読する

2017年02月06日

ノーベル賞と大学

 昨年のノーベル医学・生理学賞を受賞した大隅良典東京工業大学栄誉教授が賞金の1億円を寄付し、学生や若い研究者を支援するための基金が東工大に創設されたという発表が先月末にあった。近年ではきわめて珍しい単独受賞とあって、賞金額も大きい。東工大の学生たちにとっては大いに励みになることだろう。優れた研究者に金の心配をせずに研究に打ち込んでほしいというのが、当時の大学教授の給与の20年分もの巨額の賞金を遺言で定めたアルフレッド・ノーベルの思いだったようだが、それから100年余り、受賞者自身は超多忙になって研究どころではなくなる一方、次世代の研究者を育むために賞金が使われるのは、別の形でノーベルの思いにこたえることになるだろうか。
 このところ、日本からの受賞が続いている。昨年で3年連続となり、2000年以降、米国籍もふくめれば、科学関係では16人にのぼる。このうち6人が名古屋大学の受賞者で、いうまでもなく最多である。それ以前はといえば、1949年の湯川秀樹博士以来約半世紀の間に5人で、うち4人が京都大学だった。ノーベル賞といえば京大、といわれたゆえんだ。数も顔ぶれも様変わり、といっていい。
 とまあ、新聞記者時代にはこんなふうに、数字などをアップデートしつつ、繰り返し記事を書いてきたのだが、今回の受賞をきっかけに、ふと思った。「名大の」などというとき、その意味するところは何だろう。

 

 大隅さんの受賞が発表された10月3日(月)は、名大での初出勤の日だった。緊張しつつ、さて今年の受賞者はだれだろうかという思いもまた、頭にあった。科学記者にとって、ノーベル賞の発表は一大イベントなのである。受賞しそうな研究者について、その可能性の程度に応じてさまざまな種類の原稿を用意するとともに、当日の所在を確認しておく。とくに受賞の可能性が高そうな研究者、たとえば今年の大隅さんの場合などは、記者がその近くで待機するのを始め、科学部の記者たちはほぼ総出でいろいろな配置につき、発表の瞬間を待つのである。私も米国での特派員時代、カナダ在住のある日本人研究者の受賞に備えて待機したことがある。東海岸では授賞の発表は早朝5時ころ。夜明け前の真っ暗な中、お目当ての研究者の自宅近くに車を止め、ストックホルムから連絡があれば自宅に電気が灯るはず、と見守りつつ、連絡を待っていたことを思い出す。論説委員時代も、よほどのことがない限り、翌日の朝刊に社説を掲載することになるので、下原稿を用意して発表の瞬間を待つ。受賞となれば、大急ぎで社説の原稿を仕上げ、予定されていた社説と差し替えることになる。それ以外の部署でも、何らかの対応が必要になることもあるので気は抜けない。取材現場を離れた私は今回、後輩の科学記者の言葉を借りれば、「高みの見物」だった。それでも、もし名大から受賞者が出たら、と頭を巡らせずにいられなかったのは、受賞者輩出の名大ゆえ、そして、長年の間にしみついた記者の本能だろうか。

 

 ふたを開けてみれば、大隅さんの単独受賞という快挙だった。翌朝、新聞各紙は、受賞のニュースを大見出しで報じた。そんな中、友人の一人からメールが届いた。「大隅さんの仕事は、東大で始まって愛知県岡崎市にある基礎生物学研究所(基生研)で発展したはずなのに、新聞報道ではそれが目立たないのはなぜなのか」。報道の現場を離れた私に言われても、と思いつつ、改めて紙面を見直してみると、確かにそこへの言及は十分とはいえない。現在の所属である東工大で記者会見が行われ、学長や学生らが喜びを語っている様子が大きく伝えられているのに比べれば、東大や基生研については、触れられてはいるものの、印象は薄い。多くの人にとっては、「東工大の大隅先生」だろう。
 大隅さんが東工大に移ったのは2009年、64歳のときだ。当然のことながら、ノーベル賞につながった業績ははるか以前のものだ。ノーベル委員会があげたオートファジーの主要論文は東大で2報、基生研で2報である。研究者としてどう育ち、その発見はどんな研究環境でどのように成し遂げられたのか、それこそが重要だが、そこで鍵を握るのは東大と基生研である。
 ノーベル委員会のプレスリリースで発表した経歴には、東大で博士号を取得し、そこで研究室を構えたと書かれているものの、基生研には全く触れられていない。一方で、「米国のロックフェラー大に3年滞在」という記述はあり、ノーベル委員会、ひいてはその背後の欧米の視点を感じさせる。むろん、私たちは同じように考えるわけにはいかない。

 大隅さんがオートファジーを最初に発見した当時の東大教養学部長であり、基生研に移ったときの基生研所長でもあった毛利秀雄・東大名誉教授は受賞発表後すぐ、基生研のホームページにお祝いの言葉を寄稿し、研究の背景を語っている。大隅さんは、生物学から地学まで幅広い視野を持った人物を育てることをめざした教養学部の基礎科学科という新設学科の2期生だった。米国留学や東大理学部講師などを経て、助教授として再び教養学部に戻り、そこで初めて、オートファジーという現象を光学顕微鏡で見た。その発見を論文にするまでにさらに4年。当時から論文を書かないことで有名だったといい、学部長だった毛利さんが心配して聞いても「大丈夫」と落ち着いていたそうだ。納得がいかない限り論文は書かないという考えだったのだろうが、今の任期制のもとではなかなかできないこと、とも記している。その後移った基生研では、動物を専門とする研究者も加わった研究室を構え、オートファジーが動物にも共通する現象であることを確認し、研究が一躍発展した。

 駒場キャンパスにある教養学部は1,2年生の教養課程を担うとともに、専門課程もある。毛利さんや関係者が口をそろえるのは、本郷キャンパスにある理学部とは違って研究費は乏しかったが、自由があった、ということだ。生物学教室は教授から助手まで全員が独立した研究者で、理学部のような教授を頂点としたピラミッド構造ではない。そこで43歳の大隅さんは初めて独立した研究室を持った。もっとも、スペースは教授の半分で、スタッフもいなかった。装置を借りたりしながら、そこで大学院生とともに始めた研究が、新たな時代を切り開くことになった。
 駒場キャンパスを訪ねると、正門脇に受賞を祝う看板があり、「教養学部卒、本学部助教授時代の業績」とあった。さらに、研究科のある建物には「相関理化学専攻(駒場)理学博士」と付け加えられている。同じ東大でも、決して潤沢な研究費があるとはいえないなかで成果を上げてきたという駒場の自負心が伝わってくる。本郷に対する学内のライバル意識を超えて、自由な研究環境がいかに大切かということだろう。
 駒場の独立した自由な環境で芽生えた研究を、基生研の恵まれた研究環境が育てた。その双方にしっかり目を向けよという毛利さんの主張には大いに共感する。毛利さんは、iPS細胞を発見した山中伸弥・京大教授についても、京大教授というばかりで、神戸大の出身であることや、仕事が奈良先端大で行われたことが触れられていなかったと憤ってもいる。

東大教養学部正門前に掲げられた、受賞を祝う看板

 ノーベル賞報道は、発表時に加え、ノーベルの命日である12月10日に開かれる授賞式をピークに再度大きな盛り上がりを見せる。今回も、東大や基生研時代にさかのぼって当時の様子を取り上げた記事も多かった。それでもやはり、大隅さんといえば「東工大」だろうか。岡崎の基生研を退職する際、東大の駒場でも大隅さんを呼ぼうという声があったそうだが、結局、実現しなかったという。もし、受賞時に駒場に在籍していたら、駒場のユニークな研究環境がもっと注目され、研究環境をめぐる議論も出たのではないだろうか。

 東工大は、ノーベル化学賞を受賞した白川英樹博士の出身大学であり、受賞研究が行われた場所でもあるのだが、白川さんは受賞時の「筑波大名誉教授」で知られている。今回やっと、世間でもノーベル賞の大学として認知されたということかもしれない。
 ここまで縷々書いてきたが、言いたいのは受賞者の大学をきちんと認定すべきだということではない。大切なのは、これからも独創的な研究が生まれ続けるためにどうあるべきか、それを考えるきっかけにすべきだということだ。それには、研究者がどう育ち、どんな環境がその研究を可能にしたのか、そこにこそ目を向ける必要がある。
 大隅さんも、科学を支える環境作りの大切さを繰り返し強調し、それが基金の設立につながった。ノーベル賞を一過性のお祭り騒ぎで終わらせるわけにはいかない。

 

 さて、「名大の」である。受賞者6人のうち5人は名大で博士号を取得した、名大育ちの研究者である。唯一の例外が野依良治・名大特別教授で、京大で博士号を取得、29歳で名大助教授に転じた。以来名大を舞台に活躍し、授賞対象の研究も名大で行われた。間違いなく名大の受賞者である。
 その野依さんもふくめ、4人が名大理学部の「坂田スクール」「平田スクール」の出身である。名大キャンパスに設けられた2008年の物理学賞、化学賞受賞を記念するノーベル賞展示室に入ってまず迎えられるのが、「坂田スクール」「平田スクール」の大きな文字だ。坂田スクールはいうまでもなく、素粒子物理学の坂田昌一教授を中心としたグループである。08年の物理学賞を受けた小林誠、益川敏英の両博士はそこで育った。上下関係なく自由に議論する雰囲気で、教授もふくめてお互いに「さん」付けで呼ぶなかで、益川さんが唯一、どうしても「坂田さん」とは呼べなかったのが坂田教授だったそうだ。素粒子論の世界でそれだけ大きな存在だった。
 平田スクールを率いたのは、天然物化学の平田義正教授。08年の化学賞受賞者である下村脩博士は偶然の出会いから平田研究室で学ぶことになり、そこで身につけた研究を米国に移って発展させ、クラゲの発光物質をつきとめた。下村さんは「一番の恩師」と呼んでいる。野依さんを助教授に迎えたのも平田教授だった。野依さんは、「普通なら名のある人を採るところ、海のものとも山のものともわからない若者」を呼び、しかもそんな人事が通ったのだからすごい、と振り返る。平田さんはそれまで面識もなかった若者に「いい有機化学をしてほしい」とだけ言って化学の一分野を託し、野依さんは見事にその期待に応えた。
 これらの研究室からは、ほかにも多くの優れた研究者が出ている。そんなスクールが分野を超えて二つもあったことは驚くべきことだ。理学部に作られた新しいホールは「坂田・平田ホール」と命名されている。東大理学部のホールが2002年の物理学賞を受けた小柴昌俊東大名誉教授に因んで「小柴ホール」と名付けられているように、受賞者の名前をつけるのがふつうかもしれないが、こちらは、学生たちに向けて「メンターを見つけろ」というメッセージなのだという。

名大のノーベル賞展示室で強調されている二つのスクール

 一方、青色LEDの開発で2014年の物理学賞を受賞した赤崎勇・名大特別教授は1981年、企業から名大工学部教授に迎えられた。当時はおそらく、企業から教授を迎えるなどということはまれだっただろうが、そこはやはり、名大という大学の若さだろうか。半導体研究を担う人材として、名大で助手をしていた経験を持つ赤崎さんに白羽の矢が立った。企業での経験が、材料はタフでなければならないという信念となり、ほかの研究者があきらめた窒化ガリウムへの挑戦につながった。共同受賞者となった天野浩・名大教授は、企業経験を持った赤崎先生の研究室はほかとは全く違う雰囲気で、ぜひそこで研究したいと思ったのだという。

 いずれも、間違いなく「名大の」受賞者である。同時にその業績が過去の名大でなされたものであることもまた、いうまでもない。問題はこれからだ。大学をめぐる状況は厳しい。しかし、今後も、若い研究者たちが伸び伸びと育って力を発揮し、どんどんすぐれた研究成果が生まれる、そんな場であり続けてほしいと思う。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

書籍のご案内

» 名大生協
» Amazon
» 取扱店

» 名大生協
» Amazon
» 取扱店

過去の記事一覧

カテゴリ

» 掲載記事に関する免責事項

» トップページに戻る