名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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2017年08月21日

同窓生がつなぐもの

 マレーシアの首都クアラルンプールにあるマラヤ大学の講堂で7月31日、「ノーベル賞への道」と題した益川敏英特別教授の講演会が開かれた。これまでに20回以上も聞き役を務めてきたベテランの杉山直・理学系研究科長が今回も登壇、マラヤ大教授の質問に答える形で、益川さんの子供の頃の思い出から学生時代、ノーベル賞につながった研究、そして若者へのアドバイスまで、知られざるエピソードも交えながら話を引き出していった。大講堂を埋めた学生たちは感激の面持ちで聞き入り、次々に質問も出た。

恩師坂田先生の写真を前に語る益川敏英特別教授

益川教授を囲んで記念撮影

 ノーベル賞受賞者には講演の依頼が国内外を含めて引きもきらない。とても全てに応えることはできず、海外ともなればなおさらだが、今回の貴重な講演会は、昨年2月に創設されたばかりの名古屋大学全学同窓会マレーシア支部のたっての願いで実現したという。
 7月末からの約1週間、松尾清一総長を始めとする名大一行がマレーシアとタイを訪ねた。益川さんの講演会はその目玉行事の一つだった。多くの在校生を前に総長によるノーベル賞受賞者輩出の名大の紹介もあり、名大を卒業した現地の同窓生にとっては何よりの贈り物になったに違いない。この訪問に同行し、母国と日本との架け橋として活躍している多くの同窓生たちに会うことができた。

 名大全学同窓会の会長は2002年の創設以来、トヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎氏が務めている。マレーシアへ発つ前日の7月28日、「愛知の発明の日」の行事として「ものづくり、ひとづくり」と題した講演があった。発明の日は豊田佐吉が最初に動力織機の特許を取った8月1日に因んでいる。今年はその生誕150年に当たることを記念した特別講演会で、サテライト会場が設けられるほどの盛況ぶりだった。同氏は、5歳の時に亡くなった祖父・佐吉の遺訓である「研究と創造」がこれからますます重要になると語り、結びには大好きだという祖父の言葉「障子を開けてみよ。外は広い」を引いて、「若者は世界に目を向けて大きな夢を描いてほしい」と期待を述べた。これはそのまま、名大の後輩たちへの言葉でもあるだろう。今年92歳、足こそ弱ったとはいえ、入学式に卒業式、そしてホームカミングデーと主要な行事には欠かさず出席して力強く祝辞を述べる。母校への思いは並々ならぬものがあることを感じさせる。

 マレーシア支部は全学同窓会の15番目の海外支部である。マレーシアからの留学生数は昨年度の実績で48人、国や地域別では9番目だから、むしろ遅かったと言えるかもしれない。支部作りに動き、支部長にもなったのがナファリザル・ビン・ナヤンさんだ。工学部に留学し、博士課程修了までの9年を名大で過ごした。専攻は電子情報システムで、現在は母国のトゥン・フセイン・オン大学で准教授を務める。13〜15年、ポスドクとして北大に滞在した際、マレーシアに名大の同窓会支部がないことに気づき、ぜひ作りたいと思ったのだそうだ。昨年10月のホームカミングデーには、マレーシアでの日本語教育の第一人者として名古屋大学国際交流顕彰を受けたマラヤ大学講師のジャミラ・モハマドさんとともに招かれ、その際に、今回の益川さんの講演会の開催が決まったという。

マレーシア支部の同窓生たちが歓迎会を開いてくれた。前列中央の松尾総長の後ろがジャミラさん、左がナファリザルさん。

 マレーシアは、日本への留学に政府として力を入れてきた国の一つだ。マハティール首相が提唱した「Look East」、すなわち東方政策に基づき、1982年にマラヤ大学に日本の国立大学に留学するための特別コースが設けられた。優秀な学生を選抜し、全額政府の負担で2年間、日本語と日本の高校に相当する理数系教育を行う。当初は文系もあったが、日本の国立大学の工学部に進学するのが基本だ。これには日本政府も協力しており、日本政府派遣教師団の水野俊夫団長によれば、今年3月までに約3900人がこのプログラムを終えて日本に留学、このうち約100人が名大に留学した。ナファリザルさんもその一人だ。

 実はナファリザルさんの留学先の第一志望はイギリスだったが、英語が不得意なこともあって、確実に留学できる国として日本を選んだという。2年間予備教育を受けたとはいえ、大学の授業についていくのは大変だったと振り返る。一緒に名大に入学した仲間の中には途中で落伍した人もいる。努力の甲斐あって順調に博士号を取得し、「日本に留学してよかった」と話す。これから同窓会の活動に力を入れたいという。
 ジャミラさんも予備教育コースの出身者だ。まず筑波大に進学、名大の国際言語文化研究科で博士号を取得した。マラヤ大で日本語を教えるかたわら、首脳会談の通訳をしたり、日本文化や日本語を高校生に紹介する活動をしたり、忙しい毎日だ。日本留学中に出会って結婚したキルギス人の夫はやはりマラヤ大で日本文化や日本語を教えている。日本が結んだ国際カップルである。
 この予備コースの在学者はかつての約100人から60人程度へと減少傾向にある。政府の財政事情から全額補助がなくなったことや、中国の台頭で日本の魅力が薄れてきていることが背景にありそうだという。そうした中で、ナファリザルさんやジャミラさんたちに続く若者たちをどうやって迎え入れるのか、大きな課題だと思う。

 一方、タイの同窓会支部は2005年と、ごく初期に設立された。支部長はバンコクにあるカセサート大学の獣医学部長アピナン・スプラサート教授が務めている。同大はチュラポーン王女が化学の学位を取得した大学であり、とりわけ獣医学の水準は高い。今回、附属の動物病院を訪ねる機会があったが、CT、MRIから放射線の治療装置、リハビリ施設、動物用の車椅子まで、人間顔負けの設備が整っていた。広大な実習場もあり、日本の大学の獣医学部から学生の研修を受け入れたり、共同研究も活発に行われているという。名大との交流は40年近い歴史があり、農学部には名大卒の教授が8人いるとのことだった。

松尾総長と贈り物の交換をする支部長のアピナン・カセサート大教授

 チュラロンコン大のシンポジウムで出会った名大の大学院生、ピタヌワット・シリオンさんは、同大の工学部出身だ。修士課程の学生だった時、オランダの学会で出会った未来社会想像機構の原口哲之理特任教授に誘われ、名大の博士課程に進むことを決めた。日本語は全くできなかったが、タイで3ヶ月日本語を学んで名古屋へやってきた。母校の恩師にはしっかり日本語を学ぶよう言われていたこともあり、名大での日本語クラスのほか、自分でも勉強した。博士課程2年目を終えた今、日本語にはほぼ不自由はなく、「オンちゃん」と呼ばれて人気者だ。今回は、車に関するチュラロンコン大と名大との合同シンポジウムで記録係を務めるなどのアルバイトとして派遣され、自身のテーマであるハイブリッドエンジンに関するポスター発表も行った。博士号取得後は、日本企業に就職したいという。
 国際的に広がった輪の中から、名大をめざす人が現れる。そしてやってきた学生が日本語を身につけ、日本での生活を満喫する。明るく楽しそうなオンちゃんを見ていると、そんなふうに留学生が増えていってほしいと思う。日本の工学部は女性が極めて少ないのに対し、タイなどには工学をめざす女性が多いことも大きな魅力だ。
 オンちゃんはいずれ、名大同窓生としてさらに人の輪を広げていってくれるに違いない。

研究のポスター発表をするピタヌワット・シリオンさん

 タイではもう一人、面白い同窓生に出会った。訪問先のバンコク病院で、そのスタッフの一人として名大の一行を迎えてくれた医療コーディネーターの則竹淳さんだ。訪問側の医学部国際連携室の長谷川仁紀・特任助教とは医学部の大学院で同級生だった。
 その経歴は実にユニークだ。スポーツ選手として東京の大学を卒業したが、けがをしたことがきっかけでスポーツ医学を志し、その先進地米国へ渡った。マサチューセッツ大とボストン大の理学部で医学部に進むための勉強をし、名大医学部の大学院に進んだ。博士課程を終え、日本で研究生活を送っていた時、母国タイに戻って工業団地を経営するボストン大時代の友人から医療面での支援を相談された。

 連絡を取ったのが長谷川さんだ。アジアとの関係強化に力を入れていた当時の濱口道成総長の支援もあり、バンコク病院と名大との間で協力を進めることになった。同病院は医療水準が高く、海外からの患者を迎え入れる医療ツーリズムを積極的に展開している。当時のタイは大洪水で苦しんでおり、友人の役に立てたらという思いと、生活のオンオフの切り替えがしっかりできているタイの雰囲気も気に入って、タイに移り住むことを決めたという。まずタイ語の研修で半年、バンコク病院に移って4年になる。
  もともとはタイの友人のために始めた医療連携だったが、タイには日本企業が多く進出しており、そこで働く日本人にとっても、現地の医療、あるいは帰国後の医療の連携はきわめて重要だ。自動車関係では東海地方の企業も多い。名大出身だったことで、名大病院、あるいはそこから東海地方の病院とつながることになり、願ったりかなったりだった。
 人生、どう転ぶかわからない。則竹さんは結局、「名大」が鍵となって、タイと日本を結ぶ新たな役割を開拓した。

 いろいろな場所に身を置いた、名大同窓生たちのさまざまな活躍が大いに楽しみだ。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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