名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
大学の今を自由な立場で綴っていきます。

RSSを購読する

 アジア諸国の将来を担う人材に、仕事をしながら博士の学位を取ってもらう。そんな狙いで設立された名大アジアサテライトキャンパス学院の「国家中枢人材養成プログラム」から9月末、初の博士が3人誕生した。仕事を終えた平日の夜や週末を研究に当て、「とにかく大変だった」と口をそろえるが、テレビ会議などを通じた手厚い指導もあって3年で博士論文をまとめ上げた。
 学位を得たのは、法学ではモンゴルのウランバートル市控訴行政裁判所判事で大学でも教鞭をとるツェンド・ツォグトさんとベトナム計画投資省法律顧問のグエン・ホアイ・ソンさん、そして農学ではカンボジア農林水産省のニン・チャイさんの3人だ。いずれも修士号を持ち、さらに学びたいという希望はあったが、長期間職場を離れるのは難しい。仕事をしながら自分のテーマで研究をし、学位を得られるこのプログラムはありがたかったという。現地のサテライトキャンパスと名大をつないで日常的に指導を受けたほか、名大での集中講義や現地に派遣された教員による支援も得た。言語はすべて英語だ。
 3人の博士たちは、日々の仕事の中で研究成果をすでに生かしているという。リーダー養成を狙った新しいプログラムが、小さいけれど、将来に向けて大きい一歩を踏み出した。

博士号を取得したカンボジアのニン・チャイさん(右)と指導に当たった川北一人教授

 こうしたアジアでのプログラムが現地での人材養成に資するのはもちろんだが、生命農学研究科にとっても大きな意味がある、というのは川北一人研究科長だ。農業は地域に根ざし、地域ごとに特徴があるのと同時に、鳥インフルエンザなど人獣共通感染症や病虫害、温暖化への対応など国境を超える共通の課題も少なくない。農学は必然的に地域性と国際性を合わせ持つ。さまざまな形でのアジアでの活動がこれからの農学の発展には欠かせないからだ。
 例えば、カンボジアは鳥インフルエンザの発生がゼロの非感染地域とされているが、調べる専門家がいないというのが実情だ。「研究のタネがたくさん埋もれているはずで、それを現地の研究者と共に科学論文にして公にしていくことは双方にとって意味がある」と川北さんは話す。
 チャイさんの博士論文も、イネの病虫害防除を科学的に検証したものだ。イネはカンボジアにとって重要な作物だが、勧められるままに過剰な農薬が使われている例も少なくない。必要以上の農薬は、コスト面でも、農民や環境に対しても、マイナスだ。イネを病虫害から守りつつ収穫を増やすにはどうすればいいか、比較実験のデータで検証した。「エビデンスができたので、より良い政策の実現に取り組みたい」と意気込む。
 一方で、イネの病虫害防除では、カンボジアには、早稲から晩稲まで数種一緒に植えることで、個々には病気に弱くても、全体としては強くなっている例もある。総合的な病虫害防除が求められる今、むしろ進んだやり方かもしれない。アジアの国々へ実習に行き、「周回遅れのトップランナーかも」という感想を持つ学生も多いそうだが、実は周回遅れでもないのかもしれない、と川北さんはいう。
 途上国に対して先進国は教える立場だと思われがちだが、そこで起きていることの根底にあるものを探って行くと、どんなテーマでも普遍的、国際的、そして学際的になる。そうして広がっていくのが農学の面白さであり、現地の人と一緒にやることで互いのプラスになる。こう話すのは、アジアでの経験が長く、農学国際教育協力研究センター長を務める山内章教授だ。アジアでの教育、研究に力を入れるゆえんだ。

 イネには、そうした広がりを持った農学の面白さが集約されている。主要穀物として研究対象になるばかりでなく、生命の仕組みを探求するための実験材料として使われるモデル植物という顔も持つからだ。そんなイネをめぐる世界をちょっと探訪してみたい。 
 イネは、ゲノムと呼ばれる遺伝情報全体が例えばコムギの40の1と小さいなど研究しやすいことからモデル植物になった。伝統的なモデル植物であるシロイヌナズナに続いて2004年、植物として2番目にイネの全ゲノムが解読されて以来、活発に研究が行われるようになった。モデル動物としてはマウスやショウジョウバエなどが知られるが、イネのようないわばスターが実験材料になっている例はちょっとない。生命現象を解き明かすための研究が、作物としてのイネの育種などに役立つ可能性もある。イネ科には、イネとともに3大穀物であるコムギとトウモロコシも含まれるから、これらに応用できるかもしれない。

生物機能開発利用研究センターの芦苅基行教授

 イネのそんないろいろな顔と自在に向き合った研究で注目されているのが生物機能開発利用研究センターの芦苅基行教授だ。イネの収量を増やす遺伝子を見つけ、フィリピンの研究室でこの数年、その実用化に向けての研究を展開している。ベトナムでは、2週間程度収穫を早めることで台風の被害を受けにくくする新品種作りのプロジェクトにも取り組んできた。新品種候補のイネは、国家品種登録に向け、ベトナム各地で現在圃場試験が行われているという。
 そして今、最も力を入れて取り組んでいるのは、茎の伸び方はどう制御されているのかといった、極めて根源的なサイエンスだ。イネの茎は、穂ができるとホルモンが働いて伸び始める。早く伸びては倒れる危険があるからだ。ところが、浮きイネという洪水常襲地のイネは、水がくると、穂ができる前であろうと、1日に20〜25cmという劇的な速さで伸びて、水面に顔をだす。普通のイネは、穂ができる前は、ホルモンをかけても決して伸びない。何か別のスイッチがあるのか、それはいったい何なのか。ちなみに、急速に増水するアマゾン流域では、茎伸長だけではとても間に合わない。茎が切れて水面に浮き、洪水が引いた後に再び地面について根を出す。動いて逃げるわけにいかない植物の巧みな戦略である。
 一方、本来上に向くはずの茎が下に伸びていき、地下茎を広げるものもある。いったいなぜ、下を向くのか。この先には、地下茎で増えるイネが使われることもあり得るのだろうか。
 かつて、急速な成長の秘密を竹から学べないかという議論があった。竹そのものはとても研究材料になりそうにないが、竹もイネ科であり、茎は同様の伸び方をする。何らかのヒントが得られるのかもしれない。 

芒のあるイネ(東郷フィールドで)

 芦苅さんはこうして基礎的な研究に取り組みつつ、食糧問題に貢献したいと農学を選んだ初心を忘れていない。作物としてのイネにこだわりたい、という。東山キャンパスから南東へ約15km、愛知県東郷町にある生命農学研究科附属の農場、東郷フィールドがその現場だ。そこでの観察から、「芒(のぎ)」という研究テーマも見つけた。芒は、籾(あるいは種子)の先端で伸びている突起で、野生のイネにはあるが、栽培イネにはない。ところが、野生種の染色体の一部を導入したコシヒカリに芒があったのだ。
 博士研究員の別所奏子さんが野生のイネで芒を作る遺伝子を突き止め、その遺伝子が栽培イネでは働かなくなっていることを明らかにした。別所さんはこの業績により、女性の若手研究者を対象とする「ロレアル-ユネスコ女性科学者 日本奨励賞」をこの夏に受賞した。授賞理由は「栽培イネが芒を失った理由の解明と育種における芒の有効活用」だ。審査に当たった中西友子東京大学名誉教授によると、遺伝子だけでなく、実際に生物そのものをみている点が高く評価されたという。
 野生イネの芒の表面はトゲで覆われており、鳥や虫に食べられるのを防いだり、動物にくっついて遠くへ運んでもらったりする働きをしている。しかし、やたらにくっつくのは、作業する人間にとっては邪魔だ。そこで、野生イネを栽培化する過程で、芒がないものが選ばれていったらしい。近年、野生動物による食害が深刻になっており、害を受けにくい新品種を作るのに役立てたい、という。
 ちなみに、ムギは緑色の芒が伸びた姿がおなじみだ。ムギの芒はイネとは違って光合成という、いわば生産活動をしているため、たとえ邪魔でも除かれずに残っているようだ。芒は葉が変形したもので、イネの芒もかつては光合成していたが、進化の過程で光合成をしなくなったらしい。自然と人の手が芒を変えてきたのだ。
 もっとも、東南アジアなどでは芒のあるイネが栽培されており、日本でも江戸時代には芒のあるイネが作られていた。作業はしにくいかもしれないが、食害には強いのがメリットだ。

ロレアルの賞を受賞した別所奏子さん(右)と審査に当たった中西友子東大名誉教授

 東郷フィールドを訪ねた。イネの育種研究に長年取り組んできた北野英己教授によれば、さまざまな遺伝子を交配によって導入したイネが約1万種類、栽培されているそうだ。その中に芒を伸ばしたイネがあった。また、本田技研工業と共同開発した収量が普通のイネの1.6倍というハイブリッド米も重そうに稲穂を垂れていた。
 この農場は教育の場でもある。北野さんは「現場を知り、日本の技術を世界で生かせるような、そんな学生を育てたい」と話す。
 イネたちが、そして、ここで育った学生たちが、アジア、そして世界へどう広がっていくのか、大いに楽しみだ。

東郷フィールドのイネを前に、「基礎的な研究をしっかりやるのが大学の務め」と話す北野英己教授

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

過去の記事一覧

» 掲載記事に関する免責事項

» トップページに戻る