名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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 一連のノーベル賞の発表が終わった。2年続けて女性の受賞がなかったことから、物理学賞、化学賞、経済学賞の選考を担うスウェーデン王立科学アカデミーの事務局長は経済学賞発表後の記者会見で、来年以降の推薦依頼にあたっては、女性科学者を推薦するよう求めたいと話した。実際、ノーベル賞は1901年から今年までに923の個人・団体に贈られているが、女性受賞者は48人だけだ。科学関係の3賞ではさらにその数は限られ、最も多い医学・生理学賞でも214人中12人、化学賞は178人中4人、物理学賞は207人中2人にとどまる。マリー・キュリーが物理学賞と化学賞を受賞しているため、科学関係での女性受賞者は17人となる。受賞者の中でわずかに3%を占めるに過ぎない。

 米国化学会の年会では昨年来、ノーベル賞の女性受賞者の少なさが議論になっているという。今年のノーベル賞発表を前にした9月、学会での議論をもとにした「ノーベル賞で見過ごされた女性たち」と題する記事が機関誌「C&EN」に掲載された。その中で、受賞すべきだったとして名前の挙がった13人の女性化学者が紹介されている。1953年にDNAの二重らせん構造が解明されるのに決定的な役割を果たしたロザリンド・フランクリンの名前もある。彼女は推薦されることもないまま、58年にがんのために亡くなった。この業績でワトソンらがノーベル賞を受賞したのはその4年後の62年だ。また、核分裂の発見でノーベル化学賞を受賞したオットー・ハーンの共同研究者だったリーゼ・マイトナーについては、受賞すべき女性化学者リストのトップクラスに来るべきだとのコメントが添えられている。
 結晶構造の決定に関する業績で85年の化学賞を受賞したジェローム・カールの妻イザベラの名も挙がっている。受賞の知らせを受けた夫はすぐに、妻も共同受賞かどうかを尋ねたという。しかし、受賞者の中に妻の名はなく、別の研究者と2人での共同受賞だった。最近のインタビューでイザベラは「私たちは一緒に、またそれぞれで研究した」と語ったそうだ。互いに助け合いながら大きな業績を上げた多くの科学者カップルが同様の状況にあるとのコメントも添えられている。
 これを読んで頭に浮かんだのが、高校の生物学教科書でもおなじみの「岡崎フラグメント」の発見者として名高い名古屋大学の岡崎令治博士と妻の恒子博士の科学者カップルだ。広島で被爆した令治博士は白血病のため、75年に44歳の若さで他界したが、存命ならノーベル賞を受賞したはずと惜しむ声も多かった。もしそうなったら、「妻は?」と尋ねただろうか。

岡崎恒子特別教授。2016年12月の岡崎フラグメント50周年を記念する額とともに。

 恒子さんは現在、名大特別教授の称号を持ち、この9月、「名古屋大学レクチャー2017」で「私のたどった研究の道--DNAの不連続複製機構からヒト人工染色体構築まで」と題して講演した。
 岡崎フラグメントとは、 DNAの二重らせんがほどけて複製ができる際の小さな断片をさす。1953年にワトソンとクリックが発表したDNAの二重らせんモデルによれば、DNAの2本の鎖は「AとT」「GとC」といったように相補的な関係にあり、もとの鎖を鋳型にして新しい鎖が作られることで複製される。ちょうどファスナーを開けていくように2本の鎖がほどけ、それぞれ新しい鎖が作られていく。当時の科学者たちを悩ませたのは、この鎖にはそれぞれ向きがあり、片方の向きの複製を作る酵素は見つかったのに、もう一方ではその酵素が見つからないことだった。そちらの向きの鎖の複製をどうやって作るのか。
 岡崎さんたちの仮説は、すでにある酵素を活用してまず短い鎖を作り、それをつなげることで全体として逆向きの複製を作る、というものだった。それを実験で実証するのはもっぱら恒子さんの仕事だった。68年に米国の学会で報告すると、年来の難題が解決されたと大喝采を浴び、この短い鎖のDNAはのちに岡崎フラグメントと呼ばれるようになる。分子生物学の黎明期に、DNA複製という生命の根源に関わる仕組みを明らかにした画期的な業績である。講演会で恒子さんを紹介した町田泰則名誉教授は「純粋に日本で生み出された世界最先端の知的財産」と讃えた。

 DNAの関連では、ワトソンらのほか、先に挙げた酵素を発見したA・コーンバーグも59年に医学・生理学賞を受けている。だが、生命が遺伝情報をつないでいく複製の仕組みの部分は取り残された形だ。前理学系研究科長の松本邦弘シニアリサーチフェローは、メセルソンとスタールの2人による実験で実証された、DNAがほどけて半分ずつ複製される「半保存的複製」と、岡崎フラグメントによる不連続複製機構とを合わせて、ノーベル賞の対象になって不思議はないとみる。今となってはあまりに古典的な業績になり過ぎてしまったかもしれないが、近い分野では、DNAの修復機構に関する70年代からの研究が2015年の化学賞を受賞した。こちらは病気との関係が深く、応用重視の近年のノーベル賞の対象にはなりやすい面がありそうだ。
 70〜90年代は分子生物学の基礎的な研究が脚光を浴び、受賞も続いていた。世界にその名をとどろかせていた令治さんが存命なら、という声がでるゆえんだ。
 だが、岡崎フラグメントは、「ずっと一緒に研究してきた」という恒子さんの仕事でもある。長い鎖が切れて短くなった可能性もあるという批判も根強くあり、令治さんが亡くなった後に複雑な実験を繰り返し、短い鎖として新たに作られることを実証して研究を完成させたのは恒子さんだった。夫の死により、共同研究者、研究室のボス、そして2人の子供の父親を失った恒子さんは、1人で批判の声の高まりに直面することにもなった。この辛い時期を乗り越えられたのは、留学先の師でもあったA・コーンバーグからの励ましの手紙だったと講演で語った。「研究を続けなさい。世界は名古屋からの結果を待っている」というものだった。

研究室での岡崎令治さんと恒子さん。米国留学を控えていた頃で、研究はいつも一緒だった。

 名大の生物学科で出会って結婚した2人は60年、ともにフルブライト留学生として米国に渡り、師事したのがスタンフォード大のコーンバーグ教授だった。教授はノーベル賞を受賞したばかりで、その研究室はDNA複製の研究の世界的なメッカだった。難問に挑むべく、2人でフラグメントの研究を始めるのは、63年、名大に戻ってからのことだ。
 65年、恒子さんは岡崎研究室の助手となるが、子供のいる女性が働くなんてと学内で強い反対の声があったという。
 令治さんは研究第一、そして「典型的な日本男子」だった。「一人だとお湯一つ沸かさず、水を飲んでいるような人でした」と恒子さんは振り返る。議論の相手となり、実験をし、研究室の運営にも当たる。令治さんにとってすべて任せきりにして安心でき、気にかけなくていい存在だったのだろう。女性の権利を守るなどという考えは、まずなかったはずだ。その結果、恒子さんの貢献が隠れがちになった面は否めない。

 フラグメントを最初に報告したのは大学院生の学位論文だった。指導教官として令治さんが名を連ねていたが、学位を取らせる目的の論文にはよけいな名前は邪魔だと考えたのだろう、恒子さんの名前はなかった。この論文で大学院生の名は海外にも知られることになった。
 岡崎フラグメントで世界的な研究者となった令治さんはあちこちに講演に呼ばれるようになったが、恒子さんはいつも留守番役。恒子さんが呼ばれるようになるのは、令治さんが亡くなってからのことだ。
 米国で知人に言われたことがあるそうだ。「夫と同じ研究室だと、研究室の運営から実験まですべて引き受けることになり、支える立場として見られがちになりますよ」と。実際そうやって支えてきたし、夫もそう思っていたはずと恒子さんはいう。
 71年に朝日新聞社の朝日賞を受けた時も、恒子さんは、受賞者である令治さんの共同研究者ではなく、配偶者として授賞式に招かれた。 
 「そういう類のことはたくさんありましたが、微々たることです。研究で大切なのは、いかにいい問題を見つけ、それを解くか、です」。そう恒子さんは穏やかに語る。

理化学研究所の篠崎一雄センター長。2017年4月、名大特別教授の称号を受けた。

 そんな恒子さんの思いをしっかりと受け継ぐ後輩たちも育ってきている。
 名大レクチャー2017で恒子さんとともに講演した理化学研究所環境資源科学研究センターの篠崎一雄センター長は、岡崎研究室の出身だ。乾燥や高温、低温などの過酷な環境変動に対して植物がどう対応しているか、遺伝子レベルで解明する研究の世界的なリーダーである。篠崎さんは講演の中で、現在は東大教授である妻の和子さんの貢献にしばしば言及した。
 講演後に尋ねると、「一緒にした仕事ですから」と明快だった。「僕が新しいことを見つけてやろうとするタイプなら、妻は細かいところまできちんと詰めて進めていくタイプ。2人でなければできなかった」と話す。冒頭で触れたカール夫妻のように「一緒に、そしてそれぞれ」研究した。おそらく岡崎先生たちもそうして互いに補い合っていたのでは、という。生命科学分野ではそうして共同研究するカップルが多いそうだ。
 篠崎さんは09年に日本植物生理学会賞を受けた際、最初は1人の受賞と言われ、「1人では受けられない」と辞退した。学会は規約を変え、2人を受賞者にしてくれたので受けたという。
 名大レクチャーの講演者に選ばれたのは、恒子さんが2015年に受けた文化功労者表彰を、篠崎さんも16年に受けたこともあった。「恩師である恒子先生と一緒に講演できたのは大変光栄で、夢のよう」と話す。恒子さんは、本来ならもっと早くその栄誉に浴していて不思議はないところだが、やはり、補助的立場とみなされた面もあっただろうか。

岡崎記念レクチャールームの銘板が掲げられた研究室。

 恒子さんも含めて岡崎夫妻の功績を讃え、その精神を後代につなごうと、名大の後輩たちは15年に国際賞を創設した。Tsuneko & Reiji Okazaki Award(岡崎令治・恒子賞)だ。生命科学分野で重要な貢献をし、世界的なリーダーとしての活躍が期待される海外の若手研究者に贈られる。運営するのは13年に設立され、化学と生命科学の連携による成果を次々に生んで注目されている名大のトランスフォーマティブ生命分子研究所(ITbM)だ。審査委員会は、篠崎さんを委員長に、生命科学で後輩の女性教授である森郁恵さんや上川内あづささんらが委員としてその名を連ねる。
 岡崎夫妻の研究室があった部屋の入り口には、「岡崎記念レクチャールーム」の銘板がある。同じキャンパスで世界的な業績が生まれたことを知る機会が増えれば、若い学生たちにも大いに励みになるに違いない。

 賞、とりわけノーベル賞のような権威のある賞について、改めて考えさせられる。いうまでもないことだが、優れた研究のすべてが対象となるわけではない。「世界にどれだけ優秀な研究者がいて、どれだけ優れた成果があるか。それを考えると、ノーベル賞をいただけたことは幸運としか思えない」。そう語っていたのは2000年に化学賞を受けた白川英樹筑波大名誉教授だ。
 受賞までに時間がかかることも多く、長生きすることが重要と言われるゆえんだ。梶田隆章東大教授が15年に物理学賞を受けた時には、本来なら共同受賞したはずの師、戸塚洋二東大教授は7年前にがんで亡くなっていた。今年の医学・生理学賞を受けた体内時計の研究も、70年代初めに最初にショウジョウバエで見つけた2人は07年と15年に亡くなっている。 
 ノーベル賞の光の陰で、ノーベル賞が対象としない故人の功績は隠れがちになるが、そうした先駆者の功績にも目が向けられるべきだと思う。簡単なことではないけれど。だから、最大の先駆者がすでに亡くなっていたら、その研究は授賞すべきでないという極端な意見の持ち主もいる。とすると、顕著な成果が上がっていても授賞の機会が失われることになりかねない。悩ましい。
 そして、3人の枠もある。受賞者の顔ぶれに議論が沸き起こることも珍しくない。実際に手を動かして成果を出した若い研究者や女性が見過ごされている、とも言われ続けてきた。それも少しずつは変わってきているようだ。女性受賞者について言えば、20世紀には約2%だったのが、21世紀に入って約6%とわずかながら増えてはいる。女性を推薦してほしいというスウェーデン王立科学アカデミーの求めによって、どう変わっていくだろうか。

 さて、令治さんに受賞の知らせが届いたとして、「妻は?」と尋ねただろうか。あくまでも仮定の話として、思い切って恒子さんに聞いてみた。
 「さあ、どうかしら」。こういって微笑んだ。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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