名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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 3月末で定年退職した未来材料・システム研究所の楠美智子教授は、名古屋大学の工学系で唯一の女性教授だった。大学時代の恩師に「あなたはがむしゃらさが足りない」と言われたこともあり、「はっきりした意思を持って続けてきたというより、この分野が好きでなんとなく続けてきたという感じが強い」と振り返る。子育てのために2度、研究を離れた。しかし、その都度、請われて研究現場に戻ってきた。カーボンナノチューブやグラフェンなど炭素でできた新素材の研究で実績を重ね、民間の研究所から名古屋大学に転じたのは2007年だ。最終講義は、がむしゃらならぬ、「しなやかにナノカーボンの創製を求めて」と題し、学生たちと一緒に研究できたことが楽しかったという名大での11年について静かに語った。
 講義後、工学系女性教員一同を代表して応用物質化学専攻の鳴瀧彩絵准教授が花束を贈り、女性教員の少ない工学系で後輩たちを支えてくれたことに感謝の言葉を述べた。
 2011年の世界化学年に寄せて、「女性科学者よ、幸せであれ」と題した原稿を学会誌に書いた楠さんは、幸せそうに研究している姿を見せれば、後に続く女性は必ず出てくるという思いですごしてきたという。

工学研究科の女性教員たちは定期的に昼食会を開いている。この日は楠美智子教授(後列右から3人目)の定年を祝うため、ほぼ全員が出席した。楠さんの前が鳴瀧彩絵准教授(3月16日、NIC館で)

 楠さんは静岡県の女子校から東工大の工学部に進んだ。文系に進む生徒がほとんどという環境で理系の大学に関する情報はほとんどないまま、数学や物理が好きだという理由で選んだ大学だった。行ってみれば、まるで工場のようだし、男性ばかり。しばらく後悔していたが、4年生になり、電子顕微鏡回析学の研究室に配属されて自分の机をもらい、初めてほっとしたという。
 卒業したら郷里に戻って結婚しようかと考えていたところ、研究室の先輩が亡くなって電子顕微鏡を運用するメンバーがいなくなり、恩師に博士課程への進学を勧められた。迷ったが、結局、何とかなるかと進学した。
 恩師の長倉繁麿教授は夫人も研究者で、ごく自然に男女が対等であるという意識で、これまで会った中でも最も女性への理解がある人物だった。キャリアを拓くうえで博士号をとることが重要だという考えもあった。その通り、博士号がのちに道を拓くことになった。
 博士課程を終え、同じ研究室で助手になったが、夫の転勤先である名古屋との間を往復する無理がたたり、流産しかかって5ヶ月入院することになった。長男を無事出産し、東工大の恩師はぜひ続けるようにと言ってくれたが、1、2ヶ月で復帰するにはあまりに子供が可愛かったことから、育児に専念することにした。自分の体力と能力からどちらかに専念した方がいいという判断もあったというが、研究への思いが小さかったと少し引け目に感じることもあると正直に明かしている。

 1年半、「思いっきりのんびり育児を楽しんだ」ころ、恩師から連絡があった。名城大学で始まる新技術開発事業団(現・科学技術振興機構)の「超微粒子プロジェクト」で電子顕微鏡の研究者を探しているから面接を受けに行けという。研究から遠ざかっていたことから躊躇していたときに言われた言葉が、冒頭にあげた「がむしゃらさが足りない」である。そこで、チームの顧問である上田良二名大名誉教授のもとを泣く泣く訪ねたという。電子顕微鏡のパイオニアとして世界的に名高い、憧れの研究者だった。結局、フルタイムは免除してもらい、長男は保育園に預けて参加することになった。
 このプロジェクトは、日本真空技術の創設者で会長だった林主税氏を代表に、カーボンナノチューブの発見者として知られる飯島澄男氏も米国から呼び戻されて、電子顕微鏡分野の有力研究者が結集していた。飯島さんは、この時に作られた鉄の微粒子の電子顕微鏡写真から、後にカーボンナノチューブを発見することになる。狙いとは違うところに思わぬ大発見が潜む、研究の面白さだ。楠さんはその歴史的な発見に居合わせ、また自分のテーマの研究もできて、「ぞくぞくするほど楽しい」時間を過ごしたという。

 プロジェクトは終了し、次男を出産、再び子育てに専念した。その後、名古屋に新しくできたファインセラミックスセンター(JFCC)の研究員となった。ここでも、子供が小さいうちはフルタイムでない嘱託として働いた。そこでの実験で発見したのが、炭化ケイ素(SiC)の表面にカーボンナノチューブがびっしりと整列して並んだ構造だった。SiCを高温にして構造の変化を見るのが目的の実験だったが、2000度という高温でケイ素が飛び出し、残された炭素がなぜかチューブ構造を作って規則的に並んでいることがわかったのだ。これもまた、思わぬ大発見だった。研究仲間の新年会で、カーボンナノチューブを同じ方向に並べることを試みている、という飯島さんの話がヒントになり、もしやと思って黒くなった試料を電子顕微鏡で調べると、まさにそれだったのだ。

愛用の電子顕微鏡の前で

 カーボンナノチューブは、髪の毛の数万分の1ほどの細さで、鋼より強く、熱も電気もよく通すという性質を持ち、さまざまな応用が期待されている材料だ。名大に移ってからは、グラフェンも含めて、炭素が作る特別な構造の材料の研究を、応用も視野に進めてきた。同じ研究所の附属未来エレクトロニクス集積研究センターでは、天野浩教授をトップに窒化ガリウム(GaN)を使ったパワー半導体の研究が進む。楠さんの実験材料のSiCはパワー半導体の材料でもあり、その点ではGaNのライバルだが、SiCの開発が進むことは、周辺への波及効果も期待できるという。
 名大での一番の収穫は学生たちとのふれあいだったという。高温の炉で試料を作り、電子顕微鏡で写真を撮る。手先の器用さも要求され、4月から始めて秋風が吹く頃にどうにかできるようになる。学生たちは、苦しみながらも、粘り強く取り組んだ。面白くなりかけたところにうまく火をつけてやると研究に夢中になり、ぐんぐん育った。そういう姿を見るのは教師としての喜びだったという。
 自身は、博士課程進学を勧めてくれた東工大の恩師を始め、プロジェクトででの素晴らしい先生たちとの出会いにも恵まれ、充実した研究生活を送ることができたと振り返る。
 そして今、「研究を十分に楽しんだ」と晴れ晴れと語る。電子顕微鏡の研究はまとまった研究費が必要なこともあり、中途半端にやるのは無責任と、4月からは、これまで封印してきた趣味を楽しむ生活に入るつもりだ。「成果としては道半ばですが、あとは若い人たちに託したい」

 最終講義で花束を贈った鳴瀧さんは、楠さんが兼務していた工学部の応用化学科の教室会議で一緒だった。そこでは、会議は3時から開くなど明らかに女性教員への配慮があって、子育て中の身にはありがたいという。他の学科では夕方からの会議も珍しくない。やはり、女性教授の存在は大きいということだろうか。
 また、女性研究者もタイプはさまざまだが、楠さんのように自然体で楽しく研究している姿をみれば、私もやってみようかなと後に続く人も出るのでは、と話す。
 楠さんの思いは、後輩たちにしっかり届いたようだ。女性からはとかく敬遠されがちな工学だが、実は、日々の暮らしに近いところにある。工学研究科は、専任の女性教授ゼロ、准教授、講師、助教を合わせても11人で全体の4%弱、他部局に比べると際立って女性が少ないのが現状だ。幸せな女性研究者がもっともっと増えること、それが工学研究科、いやこれからの工学にとって重要だと思う。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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