名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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 名古屋大学東山キャンパスの南端、山手グリーンロード沿いに、木立に囲まれて大学らしからぬたたずまいを見せているのが名古屋大学ジェンダー・リサーチ・ライブラリである。昨年11月に開館した。その名の通り、ジェンダー関係の書物を集め、研究や交流の拠点となることをめざしている。目玉の一つは、女性史研究のパイオニアである水田珠枝・名古屋経済大学名誉教授の蔵書約7000冊を収める「水田珠枝文庫」である。多くの人に利用してもらいたいとの思いから寄贈されたものだが、他ならぬ水田さん自身がこのところ通って来ている。現在、新しい本の原稿を執筆しており、そのための資料としてライブラリに収めた本が必要になったという。

名古屋大学ジェンダー・リサーチ・ライブラリの1階にはカフェもあり、にぎわいを見せている。

 その原稿は、夫である水田洋・名大名誉教授の依頼によるものだ。洋さんはいうまでもなく、アダム・スミスやトマス・ホッブズらを中心とするイギリス近代社会思想史研究の第一人者として広く知られる。多くの弟子を育てる一方、市民運動にも積極的に関わってきた。名大を代表する学者の一人であり、日本学士院会員でもある。その洋さんが、著書「社会科学の考え方」(講談社現代新書)の再版に当たり、「女性を抜きにした近代思想史は不完全」として、女性が関わる部分を珠枝さんに書いて欲しいと頼んだのだ。「男だけを見ていては社会科学を包括的に研究することにならない。自分がやってきたことがいかに問題であるか、90歳を越えてようやくわかったみたい。遅いわねえ、と言ってるんです」と珠枝さんが笑いながらいう。
 こうしたやり取りがあったと聞いて驚いた。この秋に99歳になる碩学が、これまで積み重ねてきた自らの研究成果をその一部にせよ否定するに等しい。勇気を要することであるに違いない。理論を問い続ける姿勢も並大抵ではない。
 背景には、女性をめぐる今の社会状況がある。女性の問題をきちんと考えなければ、これからの社会は立ちいかない。珠枝さんの言葉によれば、「時代の危機的状況」がある。そこでの社会科学の責任は大きい、という点で2人は一致する。
 それぞれ百寿と卒寿を目前に、倦むことなく歩み続けるこの稀有な研究者カップルが今、世に問おうとしていることは何だろう。

ライブラリの水田珠枝文庫に収められた蔵書を背にした水田珠枝・名古屋経済大学名誉教授

 東京商科大学(現一橋大学)を卒業して母校の特別研究生をしていた洋さんは、すぐ隣の津田塾専門学校(現津田塾大学)から聴講に来ていた英文科在学中の珠枝さんと出会い、珠枝さんの卒業後すぐに結婚した。ほぼ同時に洋さんはその前年に創設されたばかりの名大法経学部の助教授に着任、珠枝さんはその政治学科に入学した。1949年のことだ。珠枝さんはさらに大学院の修士課程に進み、「助教授の奥さんが学生、大学院生」とずいぶん評判になったそうだ。
 2人の最初の共著「社会主義思想史」(東洋経済新報社)が出版されたのは58年だ。洋さんは同じ年に法経学部から分離した経済学部教授に昇任、珠枝さんは修士課程を終えて法学部の助手を務めていた。71年に再版された時のあとがきには、以下のように記されている。
 「この本は、夫婦の共同執筆という実験を、日本の研究者および家庭の、貧しい生活条件のなかで強行したことによって、著者にとっても記憶すべきものとなった」「大学が女性に解放されてから25年、職業としての研究生活の門は、女性に対してほとんどとざされたままであり、わかい研究者たちが、このような共同作業を新しくおこなおうとするときに直面する困難は、決して少なくなっていないであろう」。そして、「この本が、そのような困難にたいするひとつのたたかいの記録としても、うけとられることを希望する」と結んでいる。
 今からちょうど60年前、当時としては珍しい共同作業に挑んだ若い2人の決意と意気込みが伝わってくる。
 珠枝さんはその後、助手の任期を終え、女性であるがゆえに初めて壁にぶつかることになった。法学部を卒業して大学院に進んだ同期の男性4人は皆、大学に就職したが、珠枝さんだけは「子供ができたら困る」など様々な理屈をつけて断られたのだ。短大などの非常勤職を続けることになり、専門である思想史も、男性と同じことをやっても仕方がないと、思い切ってテーマを変え、女性の視点から見ることにしたという。そして73年、最初の成果として「女性解放思想の歩み」(岩波新書)を出版した。当時は、市邨学園短大(現名古屋経済大学)教授だった。
 洋さんの「社会科学の考え方」は1975年に初版が出版され、20回ほど版を重ねている。その前身である「社会科学のすすめ」は69年の出版で、実に半世紀の歴史を持つ。
 そして今、研究者としての歩みが分かれていた2人の道が重なる形での再びの共同作業によって、この本が新しく生まれ変わろうとしている。

水田洋・名古屋大学名誉教授。知の遍歴を物語る2万冊もの膨大な蔵書で知られ、うち7000冊が名大附属図書館に水田文庫として収められている。その中に2000冊を超える近代思想の原典をはじめ古典の原典が含まれている。

 洋さんがいう。「54年に『近代人の形成―近代社会観成立史』(東京大学出版会)という本を書き、以来、一生懸命やってきた。しかし、その近代人は独立の人格でありえるか、という話が出てきた。議論の中で女性の存在が無視されてしまっている。女性がいなければ再生産もできないはずなのに」。近代は、産業革命によってもたらされた生産力の増強によって余剰が生まれた時代だが、男だけがその恩恵に預かる仕組みが出来上がってしまった。社会科学は、システムの中に男性と女性の両方が入ったときにどうなるかという現実の問題を抜きに、理論だけ空回りさせてきた、ともいえる。
 このおかしさに全く気づいていなかったわけではない。「いつも珠枝に叱られていたし、問題はわかっていた。常に反体制の立場だったし、変革の意志だけは示したいと思っていた」という。「社会科学の考え方」をこれから再版する以上、もはや女性の問題を抜きにはできないところに追い込まれた形だ。「此の期に及んで大変」と苦笑いする。

 そんな洋さんについて珠枝さんは「女性の仕事に関して理解はある方だと思うけれど、実践が伴わない観念論」と手厳しい。子育てで忙しい頃、洋さんは子連れで大学や組合の大会に行ったり、保育園の迎えをしたり、当時としては先進的な父親だったが、家の中のことはすべて珠枝さん任せだった。「気持ちはあっても、何をやっていいかわからない。これだけ長く結婚していて私がやっていることを見れば、もう少しわかってもいいと思うんですが」と珠枝さんはいう。「ここまできて実践はもう無理でも、思想史だけでも自己批判しないとダメよと言っているんです」
 珠枝さんによれば、アダム・スミスにしてもトマス・ホッブズにしても、自立した近代人を語るが、彼らは独身だったこともあり、子供や家族には目がいっていない。ジャン=ジャック・ルソーも教育について立派なことを書いているが、あくまでも男の教育で、女は男に奉仕するという考えだった。女性が自立するのはどんなに大変かと考えると、彼らの理論は本当の意味で社会を見ていない、という。

 珠枝さんが「時代の危機的状況」というのは、夫の収入で一家を養うという家族のモデルが崩壊し、高齢化が進む一方で年金は減る、そんな時代には、男も女もなく、誰もが経済的、精神的に自立することが必要になってくるからだ。しかし、その準備ができていない女性は多いだろうし、不安を抱えている男性も少なくないに違いない。自立を失うことなく、同時に、協力してやっていく。それにはどういう社会を作っていくのか。社会科学の大きな課題だという。
 そこで重要なのは、子育ても介護もすべて女性任せ、つまり、女性がタダの労働力と思われている限り、女性は自立できない、ということだ。まずは、女性を自立して働く1人の人間として見ること。現実には男性の側にその意識が乏しいから、セクハラも起きる。その意味で、財務省のセクハラ事件は深い問題をはらんでいるとみる。
 洋さんも、女性の家庭での労働がタダということはあり得ないとしたうえで、女性任せになっている部分を社会で引き受ける必要があるとする。さらには、理論的には、妊娠・出産も含めて人類が対価を支払う、つまり社会が負担すべきだともいう。「具体的にどうするのか。99歳にできる仕事ではないですが」

1997年に設立された東海ジェンダー研究所の西山惠美・代表理事(右)と日置雅子・業務執行理事。研究拠点として女性図書館を作るのは長年の夢だったという。

 ジェンダー・リサーチ・ライブラリは、目的の一つとして「ジェンダーに関する制度や実践を研究し、21世紀の知のパラダイム・チェンジに貢献する」ことをうたっている。東海ジェンダー研究所と名大が3年余りの時間をかけて議論し、合意にこぎつけた。ゼミの出身者が研究所の理事を務めていたことから大学との仲介役となり、実現に向けて貢献したのが洋さんだ。投げかけた問いは後輩たちに託された。
 研究所代表理事の西山惠美さんは「資料を収集するだけでなく、海外も含めたネットワークを作り、実際に人が集まって議論する拠点にしたい」と話す。ライブラリ作りに当たって海外の女性図書館を視察し、あるべき姿を考えたという。
 ライブラリは篤志家の寄付によって建設され、同研究所が今後20年の運営費を負担する。日本で唯一の本格的女性図書館とあって、「なぜ名大に?」と聞かれることがあるという。「名大に作っただけのことはある」といわれるよう、活動を盛り立てていって欲しいと期待する。

 さて、2人の60年ぶりの共同作業だが、何をどう書き、そして付け足すのか。前例のない試みとあって、ともに四苦八苦しているそうだ。前例のない本がどうのようにでき上がるのか。大いに楽しみだ。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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