名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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 ものづくり現場でおなじみのカイゼンを医療に生かす。そう聞いても、にわかには結びつかない。実際、トヨタ自動車TQM推進部主査の古谷健夫さんが最初に相談を受けたときの反応も、「製造現場のカイゼンはモノが対象、人が対象の医療は全く違うのでは?」というものだった。だが、名古屋大学医学部の安田あゆ子客員准教授の話を聞くうち、カイゼンは医療現場で役にたつ、というよりむしろ行われていないのが不思議にさえ思えたという。6年前のこの出会いから始まったのが、名大医学部とトヨタ自動車という、異色の組み合わせによる「明日の医療の質向上をリードする医師養成プログラム」、略して「ASUISHI(あすいし)」である。カイゼンの手法によって、医療事故を防いで安全性を高め、ひいては質の高い医療の実現をめざすリーダーを育てるのが狙いだ。6月末に行われた第4期生の修了式に参加し、その成果の一端を見ることができた。
 カイゼンとは、いうまでもなく改善だが、カタカナあるいはアルファベットで書くと、先進的な品質管理、つまりトヨタの生産方式の別名となり、世界的に知られている。もともとは米国のデミング博士が提唱した品質管理の手法を日本流に練り上げた。そんなカイゼンを医療に生かすとあって、名大の試みはとりわけ海外から注目されているという。では、カイゼンによって、どのように安全な医療を実現するのか。

長尾能雅教授。医療安全の専門家として、全国的に活躍している。

 医学の進歩は大きな恩恵をもたらす一方で、高度、かつ複雑になった医療の現場ではミスも起きやすくなっている。そうした中で事故を未然に防ぐ、いわゆる医療安全が注目されている。この分野のリーダーの一人と目されているのが、名大病院の医療の質・安全管理部長で副院長でもある長尾能雅教授だ。2011年4月、医療の質・患者安全学の教授として着任した。全国の国立大学医学部で医療安全専従の教授が誕生するのは初めてだった。逆にいえばそれまで、医療安全は医学部の教授が本格的に取り組むものとは目されていなかったともいえる。そのことにむしろ驚くが、そこに医療安全をめぐる大きな課題があるといっていい。医療安全というと、医療事故への対応が思い浮かび、医師にとってはマイナスのイメージを持った後ろ向きの課題になりがちなのだ。
 だが、長尾さんは「医療安全は治療だ」という。たとえ事故が起きても、対応次第で患者の命は救える。まさに治療であり、医師だからこそできるし、やらなければならない。また、「医療安全は先進医療の進歩を止める」と言われたこともあるが、逆に、安全軽視こそが重大な事故を招いて先進医療を止めてしまう。そんな実例を多く見てきたという。
 名大病院での呼吸器内科医時代、当時の病院長らが「隠さない、逃げない、ごまかさない」を掲げて医療事故に正面から向き合う姿勢を示したのを見て、「こうあるべきだ」と自分で勉強を始めた。2005年秋に京都大学附属病院の医療安全管理室長となり、医師を巻き込んだ安全対策を進めていたところ、古巣の名大から声がかかった。 

安田あゆ子教授。背後には、プロセスの可視化のためのデータが並ぶ。

 講座に副部長として加わったのが、冒頭の場面でトヨタを訪ねた安田さんだ。名大病院で女性初の胸部外科医であり、3人の子供の母であり、米国留学などを経て着任前は厚生労働省の行政職を務めていた多彩な経験の持ち主だ。
 安田さんは、個々の事故対応を超えて、いわば川の上流でダムを作って大洪水を防ぐように、重大な事故が起きにくい組織にすることが重要だと考えていた。議論の中で、米国の医療現場は日本の産業界から手法を学んでいるという話が出てきた。実は世界保健機構(WHO)の患者安全カリキュラムガイドに「品質改善の手法を用いて医療を改善する」とあり、この手法は医療以外の現場では何十年も前から使われているとも書かれている。
 灯台下暗し、ご本家のトヨタはすぐ近くだ。早速、話を聞きにいった。品質管理というと、ネジやベルトコンベアのイメージが浮かぶが、古谷さんによれば、科学的な問題解決の方法であり、本来、あらゆる場所で使われるべきものなのだ。「これだ!」となった。
 医師がこの手法を学び、それを病院全体に広げてシステムの中に組み込むための教育を行う。そんなコンセプトで両者が協力してまとめ上げたASUISHIは2014年秋、文部科学省の課題解決型高度医療人材養成プログラムに採択された。応募26件の中から選ばれたのは2件という狭き門だった。長尾さんは、安田さんが「取れました!」と言って部屋に飛び込んできたときのことを今もはっきり覚えているという。このプログラムで医療安全のテーマが選ばれたのは初めてだった。ASUISHIは安田さんをリーダーに15年10月、開講された。

名大病院で行われたASUISHI第4期生の修了式。

 受講生は全国の病院から集まった中堅の医師たちだ。半年間で約140時間、患者安全、感染制御、質管理の三分野を学ぶ一方、4〜5人のグループに分かれ、トヨタの品質管理の専門家と医師の指導を受ける。
 カイゼンは8ステップから成る。テーマ設定と現状把握から始まり、理想的な状態を目標として設定し、その乖離が起きる原因を根本にさかのぼって見いだし、対策を立てて実行し、効果を確認して、最後にそれを定着させる。数値で示し、かつチャート図なども駆使して見える形にすることが重要だ。
 テーマはそれぞれの病院の現実の課題を取り上げる。例えば、ある受講生は、年間数十件の患者誤認が起きていたことから「患者誤認の半減」という目標を立てたところ、講師から「産業界では不良はゼロが基本」であり、患者誤認はあってはならないとの指摘を受け、目標を「患者誤認の撲滅」に変えたこともあったという。視点を変えることの大切さだろう。
 6月末の修了式では、4期生20人がその成果を発表した。テーマは「インフォームドコンセントにおける患者熟慮期間の確保」といったものから、「内服薬の配薬ミス撲滅」「点滴投与時の患者誤認をゼロに」など実に多様で、医療現場がさまざまな課題を抱えていることがよくわかる。修了生たちは問題の解決法を初めて学んだと口をそろえ、見逃しを9割以上なくしたなどの報告を行った。
 発表を聞いた厚生労働省の医療安全対策専門官の芝田おぐささんは、管理職レベルの医師たちが学んだ手法を現場に浸透させていく様子が印象的だったといい、カイゼン手法の有効性を再認識したという。

深見達弥特任講師はもともと産科医。安全を専門にするために名古屋に行くという決断を妻は応援してくれたという。

 かつて医療事故を取材した経験から、発表を聞いていて頭に浮かんだのは「医療の不確実性」という言葉だった。人間も病気も実に多様で、治療もやってみなければわからない面があるという意味で、医療事故などの際によく言われる。むろんそういう面は否定できないが、そこに逃げ込んでいることもあるのではないか。まずは、発表されているようなカイゼンを尽くすこと、つまり防げるものは防ぐことが先決では、と強く思った
 医療の質・安全管理部の深見達弥特任講師は医師の立場から、「医療の不確実性を言い訳にしてはいけない」という。3年前に脳性麻痺で入院していた13歳の長女を退院直前の予期せぬ事故で失ったことがきっかけで患者の安全を自分の使命と思うようになり、自ら志願してASUISHIに参加した2期生である。これまで安全をきちんと学んで来なかったと痛感し、またパイオニアとしての長尾さんに心酔して、さらに学びたいと福岡県の病院を辞めて今年1月、名大病院に移った。
 不確実性を言い訳にしないとは、確実にわかっている部分はあらかじめきちんと対応しておくことだ。それには、事故に至る前のミスの段階、いわば「ヒヤリハット」への対処が重要だ。それがインシデント報告で、名大病院は他の病院と比べてその数、とくに医師からの報告数が多いのが特徴だ。昨年は10834件で、うち7.3%が医師による報告だった。名大病院の病床数1000に対し、650床のある総合病院では報告数が約3000件、うち2%が医師による報告だった。ちなみに、名大病院も2000年は2764件、うち医師からは2.2%と、この病院とほぼ同程度だった。医師も自分の問題としてとらえ、対応する、という長尾さんの考えが浸透しつつあるようだ。
 こうした報告が多いことは、この病院に問題が多いことを意味しない、ということを私たちも知っておく必要があるだろう。「隠さない」という方針から、名大病院では事故を必ず公表する。医療ロボット「ダヴィンチ」の死亡事故も公表され、よく知られているが、この結果、ダヴィンチの使用についての基準ができた。隠さずに対応することが進歩につながることを示している。
 こうしたことは、医療をサイエンスにする、ということかもしれない。サイエンスとは、プロセスを大切にして、一つひとつ決められた手順を踏んでいけば常に同じ結果が得られることだ。カイゼンとはまさに、そのための手法にほかならない。

 安田さんは、成果が確実に保証されること、つまり「医療のサイエンス化」をめざしたいという。それには、「顧客第一」のトヨタ方式に対して「患者第一」を目的として掲げ、全員参加による絶え間ないカイゼンを進めることが欠かせないとする。2016年に藤田保健衛生大学病院の教授に転じ、現在は医療の質・安全対策部の医療の質管理室長としてその指揮をとる。胸部外科医として臨床の現場にも立つ一方、年に数回は海外からのASUISHI視察団に呼ばれて講演するなど、多忙な毎日だ。

修了式で受講生から花束を贈られる古谷健夫さん(右)。

 成果を上げつつあるカイゼンだが、文科省の支援は実は今年度で終わる。古谷さんは修了式で、「トヨタの問題解決法、というより、正確には、トヨタが学んできた普遍的なマネジメントの方法を伝えることができた」と振り返り、「修了生が全国にいるので安心してかかれる病院が増えた」とにこやかに話した。
 最後にあいさつした長尾さんは、ASUISHIの火を消すことなく、患者中心の質の高い医療をめざすための母体作りを進めたいと述べた。有料化も含めて教育プログラムをどのようにして続けるか、また、修了生を継続的に支援していくことが今後の課題だという。

 医療事故の取材のためにかつて、医療過誤裁判の全国的なパイオニアであり、南山大学教授でもあった加藤良夫弁護士を訪ねたことがある。大学生の長男が医療過誤で重い脳障害を負った父が著した「克彦の青春を返して」という本で広く知られるようになった事故など、名大病院での医療過誤事件もいくつか手がけてきた。その加藤さんを再訪し、その目に今の名大病院はどう映っているか、尋ねた。
 加藤さんは、長尾さんたちの努力を認めつつ、かつて同様の事故を繰り返したことに触れ、「本当の意味で病院の体質が変わるにはまだまだ時間がかかるのでは」といい、「医療事故の被害者に温かい病院であってほしい」と希望を述べた。
 克彦さんを看取った両親は「信頼できる病院になってほしい」と名大病院に3000万円を寄付した。被害者が寄付するのはきわめて異例という。

 名大病院は、そうした思いも汲んで真に「患者第一」の病院になり、そして、ASUISHIの実績を生かして、誰もが望む安全で質の高い医療の実現に向けて日本の医療をリードしていってほしいと思う。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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