名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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 「多くを学ぶことができ、実り多い旅でした」。初めてのウズベキスタン訪問を終えた野依良治特別教授は9月1日、日本への乗り継ぎ便を待つ仁川空港でこう語った。名古屋大学への留学生らを通じた同国政府からの強い要望を受け、多忙なスケジュールの間を縫うようにして実現した訪問だった。ノーベル賞受賞者がウズベキスタンを訪れるのは初めてとあって、行く先々で大歓迎を受け、講演や若い研究者たちとの懇談、政府や教育関係の要人らとの会見などを休む間もなくこなした。
 ウズベキスタンはかつて、世界的な学術の中心地であり、先進的な学問も行われていた。また日本との関係では第二次世界大戦末期の抑留者の存在も大きい。そうしたゆかりの地を訪ねる機会もあり、現地滞在3日間のあわただしい旅は印象深いものになったようだ。
 また、野依さんは「これから伸びようという若い国の熱気、指導者の情熱を強く感じた」と話し、対照的に、そうした若さを失って久しく、学術が疲弊しつつあるとみる日本の現状に改めて強い危機感を募らせていた。
 この旅に同行し、こうした歴史の流れの中に現在の名大とウズベキスタンとの今日の強い結びつきがあること、そして、雲の上の存在のようなノーベル賞受賞者の生の言葉に触発された若者たちによって未来が拓かれていくであろうことを思った。そんな時間軸の中で考えると、今回の野依さんの訪問はまさに歴史的とも言えるものだったと思う。

講演後にステージで勢揃いした野依特別教授(中央左)と松尾総長(同右)、教育大臣ら。

 野依さんはまず、首都タシケントで開かれた日本・ウズベキスタンシンポジウムで、「Where am I from? Where are you going?」と題し、学生や研究者、教育関係者らを前に講演した。前半では、戦争で廃墟になった神戸の光景から始まり、恥ずかしがり屋だったという子供時代、湯川秀樹博士のノーベル賞などに触発されて研究を志し、不斉合成の研究でノーベル賞を受賞するまでの歩みを語った。後半では、真理を追求する科学によって生み出された技術が人間の寿命を伸ばし、豊かな生活を実現するなどの恩恵をもたらした一方で、地球規模の環境破壊やグローバル化のひずみなどの問題を引き起こしており、人類の未来のために新たな知恵が求められていると語りかけた。ウズベキスタンについても、前半ではかつて活躍した世界的な学者たちに触れ、後半では日本との協力や、現在進められている教育改革などについて語った。人口3200万人のうち42%が24歳以下という若さがウズベキスタンの強みだとして、若い聴衆に希望を託した。65歳以上の高齢者が過去最高の28%になった日本と比べるとまばゆいばかりの若さだ。野依さんは最後に、「学術研究に重要なのは自由」と、今度は指導者たちに強調して講演を締めくくった。
 若者たちは、講演に強い印象を受け、大いに励まされたようだ。自分たちにもノーベル賞を受賞する可能性があるという言葉は自信につながった、また、80歳になったときに野依さんと同じような話ができるようになりたい、という感想も寄せられたそうだ。
 講演後、野依さんはタシケント工科大学で若い研究者たち十数人とテーブルを囲み、約2時間にわたってイノベーションについて意見を交わした。

若い研究者らと活発な議論が交わされたラウンドテーブル(タシケント工科大)

 一方、同行した松尾清一総長とともに、アブドゥハキモフ副首相、マジドフ高等中等専門教育大臣、アブドラフマノフ・イノベーション開発大臣らとも面会した。副首相は48歳、一橋大学で修士号を取得して日本語にも堪能で、現在進めている教育改革やイノベーション政策について熱っぽく語った。とりわけ、現在10%足らずの大学進学率を高めるのが大きな課題で、海外の大学の分校の誘致を積極的に進めているといい、ロシアの8大学、韓国の3大学がすでに分校を開校したほか、イタリアやフランス、シンガポールなどとも話が進んでいるとした。学部や博士課程の講座開設についても世界の49大学と協議中という。日本の大学にもぜひ分校を開いてほしいと要望した。
 名大は日本の大学ではウズベキスタンとの関係が最も深く、その交流は20年に及ぶ。ぜひ日本の協力をと求められて始まった法整備支援を皮切りに、日本語で日本法を学ぶ日本法教育研究センター(CALE)が2005年にタシケント法科大にできたのに続き、10年には文科省国際化拠点整備事業(グローバル30)の一環で日本の大学が共同利用もする海外事務所をタシケントに開設、15年には働きながら博士号が得られる国家中枢人材養成プログラムのアジアサテライトキャンパス学院もできた。
 また、15年に訪問した安倍首相と当時のカリモフ大統領がイノベーションセンターをタシケント工科大に作ることで合意し、そのための準備も名大が中心となって進めてきた。
 ウズベキスタンから名大への留学生はこれまでに70人以上で、同窓会もある。タシケントでの忙しい一日の締めくくりは同窓会による歓迎会だった。野依さんは「京大から助教授として名大に来て今年でちょうど50年」とにこやかに話し、後輩たちに囲まれてほっとした表情を見せた。

ナヴォイ劇場の側面に掲げられた銘板。日本人の貢献が記されている。

 ウズベキスタンで日本との関わりとなると、必ず出てくるのがタシケントにある1400人収容のバレエ劇場「ナヴォイ劇場」だ。1947年、第二次世界大戦後に移送された日本人抑留者の強制労働によって完成した。日本人の真面目な働きぶりは現地で評判になり、食べ物などの差し入れもあったそうだが、66年に大地震が起きた際、ほとんどが崩壊する中でこの建物だけは壊れず、その堅実な仕事ぶりが改めて賞賛されたという。
 この劇場を初めて訪ねる機会があり、建物の外壁に掲げられた銘板に案内された。「1945年から46年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が建設に参加し、その完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語で記されている。ウズベキスタンが抑留したわけではないと、「日本国民」とされたそうだ。この銘板が設置されたのは91年の独立からまもない96年、子供の頃にそうした日本人抑留者の姿を目にしており、感謝の気持ちを常々語っていたというカリモフ大統領の意向があった。
 レンガ造りの建物に入ると、その重厚さに圧倒される。厳しい労働環境の中、抑留者たちはどんな思いでこうした石の一つひとつを積み上げていったのか、そう考えると胸に迫るものがあった。

きれいに整備された日本人墓地

 旧ソ連の抑留者は約56万人と推計され、うち約2万5000人がウズベキスタンに送られ、劇場のほか、運河やダムなどの建設や農作業などにも従事した。抑留中に約800人が亡くなったとされるが、死者の割合はシベリアの半分以下だった。気候も含めた環境の違いが大きかったようだ。
 市内の広大な墓地の一角にある日本人墓地を訪ねると、79人の名前がその出身地とともに一人ひとり墓石に刻まれ、桜の木に見守られながら眠っていた。きれいに整備された墓地には、ウズベキスタンの他の場所で亡くなった人々の鎮魂碑もあった。
 墓地に隣接して「日本人抑留者資料館」があるのにも驚かされた。ジャリル・スルタノフ氏が抑留者に関わる資料を収集し、私財を投じて98年に設立した。当時の写真や手紙、また、抑留者が作ったゆりかごなどが展示されている。スルタノフさんは抑留者の記憶をとどめようとドキュメンタリー映画などを制作するなどの活動も続けており、2015年に日本の外務大臣表彰を受けたそうだ。

 こうした場所を巡りながら感じたのは、抑留者たちが絶望的な状況のもと、それでも最善を尽くして建設をやり遂げたことが、おそらく今日の交流につながっているのだろうということだった。それがなければ、はるかな中央アジアの一国をこうして名大の一行が訪ねることもなかったかもしれない。
 名大ウズベキスタン事務所の副所長を務めるエルドルジョン・エルムドロフさんも、日本びいきだった祖父や父からこうした抑留者の話を聞きながら育った一人だ。タシケントにある世界経済外交大学を卒業後、名大法学部の修士課程で学んだ。外務省に入り、東京の大使館で4年間務めた後、15年に名大の事務所に転じた。さまざまなプログラムの運営に当たる一方、NPOに関する研究も進めているという。
 しかし、抑留者と接したりその話を聞いたりした経験を持つ人々は少なくなり、その記憶が徐々に薄れていくことは避けられない。親日派のカリモフ大統領も一昨年死去した。
 名大国際教育交流センターが16年にまとめたウズベキスタンに関する論文集「ウズベキスタンへの架け橋」には短期留学した小久保健吾さん(当時理学部1年)の報告が載っている。現地の若者たちを対象に調査したところ、日本人抑留者に関する記憶をほとんど共有していないことがわかったという。過去の親日感情が日本に対する関心を呼び、それが若い層の間での漫画やアニメなどの人気につながっているのでは、という。
 過去の遺産を新しい形で未来につなげていくことが、これからの世代に求められていると思う。

ウルグ・ベク・メドレセの中にあるウルグ・ベクの肖像画

 もう一つ印象深かったのは、野依さんの講演の中でも紹介された15世紀初めの天文学者ウルグ・ベクの天文台だ。タシケントから南西へ350km、高速鉄道で約2時間のサマルカンドにある。ウルグ・ベクは中央アジアに隆盛を誇ったティムール帝国の第4代君主でもあり、シルクロードの要衝の地として栄えたサマルカンドは文化の中心地でもあった。
 天文台には当時、多くの天文学者が集まって太陽や星の観測を行い、測定した1太陽年の長さは、現在の数字と1分と違わない正確さだった。恒星の位置を観測した星表も、ケプラーの登場までの約200年間、最も正確なものとして広く使われたという。
 一方、交易の中心で青のタイルが印象的なレギスタン広場には、ウルグ・ベク・メドレセと呼ばれる神学校があり、イスラム教だけでなく宗派を問わず学生を受け入れて学ばせた。
 「ウルグ・ベクは交易で得た利益を研究につぎ込み、しかも宗派を越え、国も超えてその成果を分かち合ったために、当時の実力者たちに嫌われてしまいました」。ガイドのサイーダさんが言った。その結果、周囲にそそのかされた息子によって殺されるという悲劇的な結末を迎えることになる。彼の死後、天文台は破壊され、400年以上後の旧ソ連時代に天文台の地下部分が発掘され、さらに墓の調査で、ウルグ・ベクは首を切られていたこともわかった。
 ウルグ・ベクは学問を何より大切に考えていたことがわかる。同時に、いつの世でも、時代に先んじた考えは受け入れられがたいことも。アルフレッド・ノーベルが遺言でノーベル賞の受賞者は「国籍を問わず」としたことが非愛国的と反発を招き、当初は授賞式に国王らが出席しなかった逸話を思い起こした。
 「科学には国境はない。宗教の壁もない。そして稼いだ金を科学と若人の育成のために使う」。野依さんは、そんな人物が15世紀に存在したという事実に心打たれた様子で、天文台の遺構に見入っていた。

 サマルカンドで主な遺跡を見て歩くなか、思わぬ出会いがあった。ジンギスカンによって破壊し尽くされたアフラシアブの丘にある博物館を訪れると、サマルカンド国立外国語大学のトゥフタシノフ学長が野依さんを待っていたのだ。野依さんの訪問を取り上げた前夜のテレビ放送でサマルカンドに向かうことを知り、「サマルカンドにようこそ」と一言歓迎の挨拶をしたいと訪問予定の博物館に来たという。昨年、名大の一行が同大学を訪問、日本語が人気なのに日本人の先生がおらず、ぜひ派遣をと同学長や学生から強い要望を受けた。その後、タシケントの日本法教育研究センターの寺田友子特任講師が7ヶ月間同大で教えることになり、お礼の意味もあったに違いない。
 分野は違うが偉大な研究者、そして名大への敬意、さらにはサマルカンドという伝統の地の誇りもあっただろう。その熱意は改めて野依さんを驚かせた。

 今回の旅では、時間を超え、空間を超え、想像の翼を広げることになった。そこでの一つのキーワードは、野依さんのいう「学術」だったと思う。人々を結びつける普遍的な学術の力だ。彼の地で新たな芽を育てるために先を行く私たちは何をすべきなのか、あるいは何ができるのか、そしてそこから何を学ぶのか。大学だからできること、大学でなければできないことがきっとあるはずだ。その前にむろん、自らの学術の力を高めなければならないことはいうまでもない。重い課題を抱えて帰路についた。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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