名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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 国際稲研究所(IRRI)と言えば、かつて高収量のイネを開発して緑の革命に貢献し、人類を飢餓から救ったことで知られる世界的なイネ研究のメッカである。フィリピンの首都マニラの南東約60キロに位置するロスバニョスにある。この分野の研究者にとっては憧れの存在でもある。現在は、地球の温暖化が進み、さらに都市化も進んで当時とは大きく異なる環境のもと、しかし、人口増により確実に増えていくコメの需要にいかに応えるか、という複雑で困難な課題に取り組んでいる。名古屋大学はそのIRRIと学術交流協定を結ぶことになり、その調印式が2月、松尾清一総長が出席してIRRIの本部で行われる。さらに、フィリピンを主要拠点とする名大の国際熱帯農学ステーションの発足を記念する式典も、IRRIに隣接するフィリピン大学ロスバニョス校の中にある東南アジア教育大臣機構農業高等教育研究地域センター(SEARCA)の本部で行われる。SEARCAは農学分野の人材育成を行う国際機関である。
 フィリピンを代表する大学に加え、農業分野の主要な国際機関が集まっているこの一帯は、東南アジアにおける農学研究の一大中心地と言っていい。名大はこれまでもそれぞれとさまざまな協力を進めてきた。今回のIRRIとの協定やステーションの発足は、こうした実績をもとに、協力を新たなステージへと進化させ、いっそう強化するねらいだ。アジア諸国との協力というと「支援」が頭に浮かびがちだが、アジアをリードするフィリピンの農学の存在感は大きく、むしろパートナーと呼ぶ方がふさわしい。世界中どこでやっても基本的に同じ結果が得られる理学や工学などとは異なり、農学では土地が違えば必ずしも同じ結果が出ない。一方で、その裏付けとして先端的な科学研究も重要だ。農学が「グローバルであると同時にローカル」(川北一人・生命農学研究科長)であるゆえんだ。事前に現地を訪ねる機会があり、フィリピンでの活動を広げる意義を実感した。
 そして今、そこでの成果をさらにアフリカで生かす試みも始まろうとしている。

長期的な栽培実験も行われている、イネ研究のメッカ、IRRI本部

 緑の革命は、1960年代にかけて高収量の穀物の登場で食糧生産を大きく増やし、世界の食糧危機を救った。その立役者である米国の農学研究者、ノーマン・ボーローグは1970年にノーベル平和賞を受賞した。食糧を安定的に供給することで世界平和に貢献する、農学が平和の学問といわれるゆえんだ。
 それに大きく貢献したのが日本の技術だ。ボーローグは40年代にメキシコで、高収量で病害に強い小麦の育種をめざしていた。しかし、茎が細くて背が高いメキシコの小麦はたくさん実ると倒れてしまう。世界中の小麦を調べたが、背の低いものはなかなか見つからなかった。そんな折、進駐軍が日本で収集して持ち帰った小麦のある品種が米国内の研究所にあることがわかった。岩手県の農事試験場で開発された「農林10号」である。ずんぐりむっくり、背が低くて倒れにくい。ボーローグは53年、これを交配して、収量が2倍、かつ倒れにくい新しい品種を作り出した。メキシコはこの品種によって小麦の自給を達成し、世界の小麦収量も大きく増加した。

 次の課題はイネだった。米国のロックフェラー財団やフォード財団などによって60年に設立されたIRRIで研究が行われ、小麦で成功したやり方を応用して、高収量で倒れにくく、病害にも強いイネの新品種が開発された。それが奇跡のコメとも呼ばれるIR8だ。
 ボーローグが小麦の研究をした研究所は66 年、国際トウモロコシ小麦改良センター(CIMMYT)となり、IRRIなどと合わせて国際農業研究協議グループ(CGIAR)を形成している。

 こうして緑の革命は確かに人類を飢餓から救った。しかし、IR8などの新品種は大量の肥料や灌漑設備など条件の整った生育環境を必要とする。その栽培が広がることは米国の化学品メーカーにとっては莫大な市場が生まれることも意味し、そのことが米国の財団が新品種の開発支援に乗り出してきた背景にあった、ともいわれる。新品種は裕福な農家でないと栽培できず、格差を広げる結果も生んだ。その反省から、多収量で、かつ大量の肥料や農薬を必要としない品種が求められるようになってきたという。水資源も世界各地で希少になってきており、できるだけ少ない水で育つことも重要な条件だ。そうした品種をめざす研究によって、その後の研究の発展に貢献するような多くの成果が生まれた。
 そこで思い出したのが、名大アジアサテライトキャンパス学院の「国家中枢人材養成プログラム」で2017年に博士号取得第一号となったカンボジア農林水産省のニン・チャイさんによるイネの病害虫駆除に関する研究だ。同国では勧められるままに過剰の農薬が使われている例が多く、環境にも健康にも、そしてコスト面でもマイナスが大きかった。そこで、必要にして十分な農薬の使い方を比較実験で検証するのが研究の目的だった。「エビデンスをもとによりよい政策を実現したい」とにこやかに語っていたのを思いだす。
 博士となったチャイさんは現在、その地に根ざした稲作のリーダーとして、カンボジアのみならず広くアジアを飛び回って活躍しているという。

国家中枢人材養成プログラムの入学式を終え、山内章教授を囲む2人の入学生(SEARCAで)

 このプログラムは、アジア諸国の将来を担う人材に、仕事を続けながら名大の教員の指導を受けて博士号をとってもらうのがねらいだ。対象国はフィリピンに加えてカンボジア、ベトナムなど7カ国、分野は農学のほか法学、環境学など多岐にわたる。
 フィリピンからは、農学では6人、国際開発で2人の学生が現在このプログラムで博士号をめざしている。その第一号としてこの春に修了予定の科学技術省のロニロ・デ・カストロさんは、フィリピンの主要産物であるココナッツの搾りかすをブタのタンパク飼料として活用するための研究に取り組んできた。飼料の国産化につながる重要なテーマだ。昨秋新たに入学した農学の2人は、フィリピン大学ロスバニョス校(UPLB)などの研究者で、いずれもテーマはイネだ。
 フィリピンでの活動を支えるのが、SEARCAのプログラム長として長年東南アジアでの人材育成にかかわってきたエディタ・セディコール特任教授だ。幅広い人脈により、国際的なネットワークが広がってきている。国際熱帯農学ステーションはこれをさらに広げるとともに、日本国内の他の大学や研究機関にも研究や教育の場として提供し、いわばハブとしての役割を果たすこともめざしている。
 拠点はUPLBに置かれるが、レイテ島のビサヤ国立大学とも今回全学交流協定を結び、副拠点とする。同大は農業大学から始まった総合大学で、EUのアカデミックコンソーシアムのメンバーでもある。例えばイモ類研究所など、日本には例がない、作物に特化した欧米流の研究センターを早くから設置し、高いレベルの遺伝子解析装置も備えているという。トゥーリン学長は名大の博士課程を修了し、アジア農科大学連合の前会長だった。ちなみに、川北さんは現在、その副会長を務めている。ヨーロッパに近い、先端の研究・教育環境が地方にもある。フィリピンの農学の厚みを感じさせる。

フィリピンサテライトキャンパスのオフィス前に立つセディコール特任教授

 海外での研究や教育の拠点作りを進める背景の一つには、2017年に日本も批准した名古屋議定書によって、遺伝資源の国外への持ち出しに制限がかかるようになったことがある。
 そもそも、同じ遺伝子でも土地によって現れる結果は変わってくる。例えば、乾燥に強い遺伝子を組み込んだイネの栽培実験がIRRIで行われたが、狙った結果にはならなかった。「遺伝子と環境の相互作用があって、同じ遺伝子でも必ずしも同じ結果にはならない。それが植物の面白いところ」と、長年フィリピンを始めとするアジア諸国との協力を進めてきた生命農学研究科の農学国際教育研究センター長でもある山内章教授はいう。現地に拠点を置くことが欠かせないゆえんだ。

 一方、IRRIとの共同研究の成果をもとに、新たな展開を見据えるのが名大生物機能開発利用研究センターの芦苅基行教授だ。アジアやアフリカの食料危機を回避するためのイネの新品種を開発するWISH(Wonder rice Initiative for food Security and Health)プロジェクトを国際協力機構(JICA)の支援で進めてきた。めざすのは、収量が多く、その土地にあった「ワンダーライス」だ。芦苅さんたちの研究グループは、イネの収量にかかわる遺伝子や耐倒伏性にかかわる遺伝子など農業にとって重要な遺伝子を次々と世界に先駆けて同定し、これらの基礎研究の成果をイネの品種開発に利用しようと考えていた。
 WISHプロジェクトでは、遺伝子組み替えでなく、交配によって品種改良を進め、収量を増やし、茎を倒れにくくし、また低温や病害虫のストレスに強いなどの性質を持った約250系統のイネを開発してきた。年に2回収穫できるフィリピンだからこそ、半分の時間でできた。第1期のプロジェクトは昨年春に終了、今まさに第2ステージに進もうとしている。これらのイネはIRRIに託されるとともに、アジアやアフリカ、南米などでの評価実験が始まった。
 なかでも芦苅さんが力を入れるのは、最も飢餓が深刻なアフリカだ。この250系統を現地で評価し、いい系統を品種にしてさらに改良したいという。また、現地のニーズに合わせてさらに改良し、新品種を名大ブランドで作り出したいと意気込む。その舞台は、ケニアの高原にある実験施設だ。農学国際教育研究センターの槇原大悟准教授が2007年から現地の研究所と共同で整備し、留学生を受け入れたりして地道に協力の基盤を築いてきた。アフリカにあるIRRIの支部とも共同研究を行う予定だ。

 実は、ケニアの実験施設では、名大の基礎研究の成果をもとにアフリカの飢餓を救おうというもう一つのプロジェクトが動き出そうとしている。アフリカではトウモロコシなどの穀物に寄生して枯らせてしまうストライガという寄生植物が農業に甚大な被害をもたらし、「魔女の雑草」として恐れられている。休眠していたストライガはトウモロコシなどの根から出る物質を察知して目を覚まし、発芽する。トランスフォーマティブ生命分子研究所(ITbM)の土屋雄一朗特任准教授らは、ストライガをおびき出して発芽させ、そのまま枯死させてしまうことで駆除する分子を開発し、昨年12月に発表した。
 前述したように、こうした物質が実際にうまく働くかどうかは、現地で実際に試さないとわからない。ITbMは、アフリカでの実用化をめざしてストライガ撲滅プロジェクトに数年来取り組んでいたが、現地での実験の手がかりはないままだった。ケニアに実験施設があることは学内でもほとんど知られておらず、ITbMの伊丹健一郎拠点長が知ったのは昨年初めだった。理化学研究所が名大に「理研ー名大科学技術ハブ」という共同研究の拠点をつくることになり、学内関係者を集めた打ち合わせの中で初めて知ったという。ちょうど駆除する分子の開発にメドがついたころで、救いの神が現れたと、皆で大喜びしたそうだ。現在、現地での実地試験に向けて準備が進められている。

 まさに灯台下暗し。大学の中には、互いに知らない宝があちこちにまだまだ隠れているに違いない。そのことを改めて感じさせる。
 そして、長年積み重ねてきた実績のうえに、これらの新たな試みがあるのだと思う。アジアでの協力のいっそうの発展とともに、名大が世界に誇る基礎研究の成果がアフリカの地で花開き、飢餓という人類共通の課題解決に貢献することを期待したい。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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