名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
大学の今を自由な立場で綴っていきます。

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 松尾清一総長は1970年に入学して以来、米国留学や病院勤務の数年を除くと、ほぼ半世紀にわたって名古屋大学で過ごしてきた。医学部の学生から名大病院での教員、病院長、そして本部の産学官連携推進本部長、総長となり、大学との関わりが広がってきた。現在は政府の総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)の議員などとして、外から大学を見る立場でもある。名大を見る目はどう変わり、これからの名大像をどう描いているのか。                                 (聞き手・辻篤子)

「できるだけ多く、できれば遠くにいる人の話を聞きたい」と語る。

 ―半世紀を振り返ると?
 松尾 大学を卒業して米国留学するまでと帰国後では全く違う人間になりました。行く前は環境順応型であなた任せのタイプでしたが、米国では自分で切り開かないと進まないというところに無理やり置かれ、初めて自分の意志で動いた。マインドセットが変わったというのかな。それが今でも生きています。

 ― そもそも兵庫県の高校生がなぜ名大へ?
 松尾 至って真面目な田舎の高校生でした。卒業した69年は大学紛争で東大入試が中止された年で、物理の先生の影響で研究をやりたいと京大理学部を受けたら、大学周辺の道路は石だらけ、機動隊に守られて入試会場に入りました。世界が違うなと思い知らされました。ホテルの朝食で卵に添えられた、今にして思えばタバスコをケチャップと間違えて大量にかけ、飛び上がるくらい辛かった。それぐらい世間知らずでした。当時、テレビでは東京や京都、大阪での学生運動が盛んに報じられており、騒々しいところには行きたくないと、翌年は名古屋を選びました。今に通じる話ですが、名古屋のニュースは一切なかったのです。入学して初めて、前年は大学が封鎖されて授業もなく、ようやく再開されたところだと知りました。校内では学生が武闘訓練をやっていて、驚きました。受験生の頃、理工系志望ながら古典や漢文も含めてものすごく本を読み、国語の成績は良くなかったけれど勉強は楽しかった思い出があります。
 ― 医学部を選んだのは。
 松尾 自由に生きたいと思い、医者なら縛られない生き方ができると田舎の高校生は想像したのです。これも実際は違っていましたが。
 ― どんな学生時代でしたか。
 松尾 まだまだデモも盛んで落ち着いて勉強する雰囲気ではなく、勉強はあまりしませんでした。医学部のラグビー部に入ったものの、骨折して運動できず、学外の人とフォークソングを歌ったり、音楽系のサークルを楽しんでいました。卒業の際、名大では、行き先の病院を決めるのもすべて学生がオーガナイズする自主的な卒後研修をしていましたが、クラスでその委員長をやったりしました。専門を決める時も主体性はなく、腎臓はいいぞと友人に言われ、ある病院を見に行っていいなと思い、決めました。透析で命が助かるようになってきた時代で、研究でも臨床でも社会の役に立つと思ったわけです。地域医療をめざしていて、できるだけ早く地域で働きたかったけれど、大学院に行けと言われ、大学院に入りました。我ながら芯がない。当時名大では血液内科が最先端でしたが、そんなことも全く知りませんでした。

 ― そして、運命の米国留学ですね。
 松尾 これも来いと言われてニューヨークへ行ったところ、頼る人はいないし、自分がやりたいこととは違う。大変苦労しました。同じ研究室のイタリア人留学生に、移りたいなら学会の夜のワインセミナーでお目当ての先生に突撃せよと言われて実行したけどうまくいかない。1年後、もう帰ろうという時にある先生を紹介されて意気投合しました。生涯の師となるギュセッペ・アンドレス先生で、先生のいるバッファローに移りました。すごく尊敬できる、メンターとして最高の先生でした。時間だけはたっぷりあったニューヨークでの1年、図書館に通い詰めて腎臓病理に関する論文を山ほど読んでおり、その蓄積もあって、バッファローでは成果が上がり、先生との信頼関係もできてプロジェクトを任されるようにもなりました。内科のトップ誌に論文が掲載されて日本でも注目されていたようです。将来のことも考えず、研究に没頭した2年2ヶ月でした。ニューヨークの最初の先生も、行ってすぐに変わりたいと言ったりすれば、普通なら「なんだ、お前は」となるところ、アンドレス先生に推薦してくれた。ありがたいと思っています。
 ― 帰国した時は別人ですか。
 松尾 当時はわからなかったけれど、振り返ってみれば別人になったと思います。自分の意思で動くようになった。日本でも研究を続けたかったのですが、ちょうど医療の制度が大きく変わる時期で、医学部助手になって以来、さまざまな改革に取り組むことになりました。まず、卒後研修制度は、以前に手がけた全科をローテートする学生中心の名大方式をもとに、今度は大学で責任を持とうと、卒後臨床研修センターを作り、副センター長として切り盛りしました。この新名大方式が国の方針にもなりました。次に、内科をナンバー制から臓器別に再編する改革も若手の中心になって進めました。病院長時代には、国立大学として初めて医療安全専門の教授ポストを作り、長尾能雅先生に来ていただきました。当時、初期の対応を誤ったために収束に1年半かかった医療事故があり、医療安全の強力な独立した部門にするしかないという改革の機運もありました。規模も内容も全国で1、2を争うものと自負しています。

バッファロー留学時代、生涯の恩師となったアンドレス先生と。

 ― 病院から産学連携へ、ちょっと距離がありそうですが。
 松尾 そうですね。実は病院長時代、新しい医療技術や創薬に関わっていました。本来なら、名大は中核病院として国のプロジェクトを進める立場なのですが、初期はそうしたプロジェクトに次々に落ちていて、病院長として責任を追及されたりしていました。やっと取れたのは2年後。失敗から学び、プロジェクトの意味を深く理解して政策の意図を読み取らないと的確な対応ができないと考えた結果です。この過程で産学連携の重要さを学び、実用化につなげるための先端医療・臨床研究支援センターを既存の組織を発展的に解消して作りました。そうしたこともあってか、濵口道成・前総長に言われて病院長の最後の1年、産学連携の副本部長を兼務しました。それぞれ150%を要求される仕事ですから、大変でした。
 ― その後、本部長として本格的に産学連携を担われました。
 松尾 医学から来たので、工学や理学のことははっきり言ってよくわからなかった。しかし当時、毎年2億円を超える収入があった青色LEDの赤﨑特許が切れ、特許収入が一挙に1位から28位に落ちて低迷が続いていました。ノーベル賞が相次ぎ、名大の基礎研究はすごいと言われる一方で、これだけ産業の中心地にありながら、産学連携の成績はめちゃくちゃ悪かったのです。産学連携のタネは基礎研究から生まれ、本人が気づかなくてもプロから見たら面白いものがいくらでもある。社会実装につなげる支援を組織的にやろうと、基礎研究支援、産学連携、URAとバラバラだったのを統合する組織改革を行いました。これまでの経験から、個別の努力ももちろん必要だが、組織のあり方が重要だとわかっていました。抵抗もありましたが、V字回復することができました。組織を改革してやり方を変えるだけで、企業との共同研究も5年で3倍になりました。
 ― 病院での組織改革の経験が生きたわけですね。
 松尾 そうだと思います。20年以上ずっと改革をやってきましたから。ただ、悲しい性格で、いろいろなところへ行って話を聞くと、この組織の問題は何か、ここを変えたらこうよくなるのにとすぐ思ってしまう。現場の人にとっては大変な迷惑で、何十年もやってきたのにいきなり来てやり方を変えろとはなんだ、と思っている人はたくさんいるに違いありません。今は総長としての責任があります。いきなり物事が変わるわけではないので、大切なのは目標や志を共有して、相互理解と信頼のもと、方法論を共有して一緒に実行することです。組織が変わればマインドセットが変わる。最初はうまくいかなくても、組織を鍛えに鍛えるとやがて成果は上がる。そうすれば相当のことができると思っています。

 大学全体を見るようになって見方は変わりましたか?
 松尾 医学部では、昼間は臨床、夜は研究と、自分たちが一番働いて稼いでいると思い込んでいましたし、医学が学問として一番大事とも思っていました。今は決してそうではなく、大学や世の中を包括的に見られるようになりました。社会を変えるには総体としての学問が大事だと、頭で思うだけではなくて、感覚として持っています。そして何より、名大にはまだまだ眠っているリソースがあると気付かされました。しかしながら、旧帝大で7番目、運営費交付金で8位、学部学生数で10、11番目、こんなもんだという抜きがたい固定観念も一方であるのではないか。運営費交付金も減るなかで発展をさせようがないと思っている人もいる。一番大事なのは志、何をめざすか、です。今でも一人ひとりはよく頑張っているけれど、志を高く持ってポジティブなマインドセットになった時、名大はもっと強くなれると思っています。
 ―人文社会系はどうですか。
 松尾 まだよくわかったとは言えないのですが、一つ言えるのは、自由な発想で行う基礎研究が大事で、その成果を応用、実装して社会を変えていくのが大学の役割であるというのは、理系だけでなく、文系も同じだということです。文系が世の中、特に国や産業界からいろいろ言われるのは閉じこもっているからかもしれません。もっと外に出ないと。変化が激しいなか、未来社会をどうデザインするのか、そこに人文社会系の力がないとまともなものになりません。決して技術だけでは解決しない。人文社会系をもっともっと強くする必要があると思っています。名大の人文社会系の教員は、絶対数こそ少ないものの、理系に対する比率は旧帝大では最も高いのです。大いに力を発揮して欲しいと思っています。

台湾の書家から贈られた「天の時、地の利、人の和」の書。今の思いが込められた言葉だ。

 毎週出席している内閣府のCSTIなどで大学はどう見られていますか。
 松尾 特に財務省では国全体の状況についての危機感が強く、国立大学は危機感が足りないのではないかと思っているようです。運営費交付金をたくさんもらいながら、自ら勇気を持って変えようとしていないと。だから、数値を挙げて改善しろと、いわば押し付け改革になっています。ただ、大学の数は減らそうとしているけれど、つぶそうとしているわけではない。彼らなりに大学の機能を強くしようとしている。それに対して意見は言っていますが、強く感じるのは、大学はこう変えているのだから国は支援せよという声が届いていないことです。その結果、財務省と大学とで噛み合わない議論になってしまう。今必要なのは、実際にやって見せることです。学内で提案しているマネジメント改革の三つの柱もそれがねらいです。岐阜大との連携も実際にやってみせ、法案もできた。最初に出ると、叩かれ、打たれるかもしれないけれど、踏み出さないと進歩はありません。

 ― 岐阜大と統合して作る東海機構でめざすものは?
 松尾 名大の機能の強化には連携しかないと思っています。東大や京大、阪大などとは規模が全く違います。自分の大学だけでできなければ、岐阜大と一緒になってプラットフォームを広げればいい。教育も、例えば経済で全分野網羅しようとして1人ずつ張り付けたら研究はできません。教育は学生のためになるように連携し、それぞれ尖った研究は続けようということです。確かに、両大学は文部科学省が決めた三類型でいえば、主に地域貢献する大学、国際競争する大学と分かれていますが、研究者は必ずしもそうではない。それぞれの大学が特徴を持った二つの台形とすると、それらを合わせることで補い合う、つまり、機能を機構として統合しようと考えています。地域貢献をするし、国際競争もする。地域の物づくりだって今や、決して地域にとどまっていませんから。一緒にやっている間に両大学の意識が限りなく近づいてくる、そうなれば望ましい。1足す1を3にする、そういう意識になれるかが鍵です。農学分野では、基礎研究から流通までを大きな視野で取り組もうという東海農学ステーションのアイデアが提起されています。地域の私学もふくめ、日本の農業を考えると同時に世界ともつながる農業を考えようと。
 名大の将来のためには、そういう大きなスケール、発想での連携が不可欠だと思っています。将来、母校が東海、というようになれば、序列も変わるだろうし、世界有数の大学になれる可能性もある。大学のクラスターかもしれないけれど。それは同時に地域や社会に貢献することになり、リターンも得られやすくなってさらに発展できる。そんないい循環を作りあげて何年かすれば、どこにも負けない大学になる。そう信じています。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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