名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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 「こんな本があった!」と題された展示が西尾市岩瀬文庫の企画展として開かれている。副題は「岩瀬文庫平成悉皆(しっかい)調査中間報告展16」である。漢字ばかりで一瞬戸惑うが、それを読み解いた説明によると、「平成12年度から継続している岩瀬文庫の全資料調査の過程で出逢った珍しい本や新たな発見などをいち早く紹介する、年度末恒例展示の第16弾」である。
 岩瀬文庫は明治時代の地元の実業家、岩瀬弥助が集めた江戸時代を中心とする古書の図書館として、全国でも知る人ぞ知る存在だ。その8万冊に及ぶ蔵書をすべて読み込んで詳細な目録を作る作業が名古屋大学人文学研究科の塩村耕教授によって2000年から進められてきた。塩村さんは作業に取りかかってすぐ、こんなすごい本があったのかと驚き、20年近くたった今も「こんな本」たちに驚かされ続けているという。最新の調査結果を紹介する展示を毎年、この同じタイトルで続けてきたゆえんだ。
 こんな本とはいったい、どんな本なのか。そして、それがどのようにしてここで保存されるに至ったのか。 

岩瀬文庫の企画展の会場

 西尾市は愛知県の南部、三河湾に面し、かつては西尾藩の城下町だった。全国でも有数の抹茶の産地でもあり、「三河の小京都」を自認する一方、「本の町」でもある。毎年秋に開かれる「にしお本まつり」は本の力で地域文化を発展させようという市民文化祭で、岩瀬弥助の志を受け継いでいく狙いという。ちなみに、忠臣蔵の敵役として知られる吉良上野介の領地は現在の西尾市吉良町である。
 名鉄西尾駅を出ると歴史的な街並みが続き、その一角では、最近は見かけることの減った円筒形の郵便ポストが鮮やかな緑色で迎えてくれる。さらに進むと、「日本初の古書ミュージアム」をうたう岩瀬文庫が西尾市立図書館に隣接して立っている。
 岩瀬文庫がユニークなのは明治41(1908)年の開設から市の施設になった現在まで、一貫して人々に古書を手にとって読んでもらうための図書館であり続けていることだ。多くの人に読んでほしい。それが創設者の岩瀬弥助の思いだった。財を成した篤志家らによって明治以来、私立図書館は全国に数多く作られたが、災害や戦乱などもあって蔵書の多くは散逸した。現在まで残り、かつ、誰もが読める、そんな古書の図書館はまず例を見ないという。

右にあるのが岩瀬文庫の本館、中央の茶色の建物は旧書庫

 岩瀬文庫は書庫と一般向けの公開スペースからなり、閲覧室では18歳以上なら誰でも、希望の本を読むことができる。まず腕時計や指輪など手の周りのアクセサリーを外し、所持品をロッカーに入れて手を洗う。そして、頼んだ本が運ばれてくるのを待つ。ペンは使えず、メモを取る場合は備え付けの鉛筆を使う。
 伊勢物語の写本を手にとった。鮮やかな絵に、勢いを感じさせる文字が並んでいる。中には書き間違えて直したとみられる場所もあり、削ったり、水で消したりしたような痕跡も残っている。これらの文字を書いた人がいて、その文字を目で追った人たちがいる。ページを繰っていると、どれだけの人が、そしてどんな人たちが、同じようにページを繰り、同じ文字に視線を走らせて胸を高鳴らせてきたのだろうと思わずにいられない。そうした人たちの息遣いすら感じられるような気がして、1冊の本を通して見知らぬ先人たちと同じ時間の流れの中にいるのだと実感する。
 本とはそうして、時を超えて人々の思いをつないでいくものなのだろう。デジタル化された本ではこうはいかない。紙の本ならでは、である。

悉皆調査を進めている塩村耕教授。週末はほとんど、岩瀬文庫で調査に当たっている。

 塩村さんは、井原西鶴を中心とする近世前期の文学が専門だ。東京での学生時代から岩瀬文庫のことはよく知っていたが、本格的に通い始めたのは1985年に名古屋の椙山女学園短大に就職してからだ。98年に名大文学部に移ってからも文庫通いは続いた。2000年6月、岩瀬文庫の建て替えに際し、詳しい目録を作ってデータベースで公開する「悉皆調査」が計画され、その担い手として白羽の矢が立った。悉皆とはすべてという意味だ。
 「願ってもない、まさに夢のようなことだった」と振り返る。以来、毎週末、当初は平日も通いつめ、朝9時から夕方5時まで作業に取り組んだ。学生や研究仲間も多数参加して、貴重な体験をすることができた。内容紹介もふくめた詳しい書誌データをできたものからネットで公開している。本そのものを画像データとして公開することはしない。文庫まで足を運んで実際に手にとってみてほしいからだ。ただし、特に重要なごく一部の本については、全文テキスト化して検索できるようにしている。いずれ、古書のすべてがテキスト化されて研究対象になれば、人文学は一変するはずという。そうした時代に先鞭をつけたい、という思いもある。

 調査で出会ったこんな本とは、例えば、「続史愚抄(ゾクシ・グショウ)」だ。鎌倉時代から江戸時代の中期までの500年余りの朝廷を中心とした出来事を記載した大部の巻物で、多くの資料を駆使して書かれている。驚くのは、柳原紀光(モトミツ)という公家が一族の助けを得ながら一人で書き上げたということだ。歴史を専門とする学芸員の村瀬貴則さんはそのことに圧倒されるという。歴史家の間では広く知られた貴重な史書で、岩瀬文庫には完全に近い形で残っている。
 蔵書は他に、全国各地の地誌や愛書家大名の読書自叙伝があれば、犬の飼育法の指南書や動植物の図鑑などもあって実に多様で、往時の社会や暮らし、災害などの様子を詳しく教えてくれる。こんな記録がよく残ったものだと塩村さんが驚くようなものも数多い。富士山に関する書籍ではおそらく日本一のコレクションという。

 大地震の様子を詳細につづった「後昔安全録」

 調査はほぼ終了し、現在は落穂拾い的な作業を細々と続けているところだそうだ。今回の展覧会は、番外編の番外編といい、これまでの「こんな本」展で取り上げたかったが泣く泣く割愛した本を集めたという。展覧会の開催に先立ち、2月初めに調査の様子を見学に行った際に見せてもらったのが「後昔安全録」と題された見聞録だ。安政の大地震(1855年)や当時流行したコロリや麻疹などの出来事を詳細に記録している。著者は江戸南本所番場町に住む地震当時40歳の町人という。四つ時(午後10時)、寝支度をして横になったところで「天井の方にてがたがたと物音致し候」、生まれたばかりの息子を片手でつかんで次の間へ行くと、「みしみしと音して、頭の上へ家潰れかかり候」などと、地震に襲われた時の様子が実に生き生きとつづられている。塩村さんは「臨場感ある描写が際立つ、上々のルポルタージュ文学」と舌を巻く。名も知れぬ個人が残したものなど、おそらく1冊限りの「孤本」と呼ばれるものが多いのも岩瀬文庫の特徴だ。
 この本は、今回の展示の第1部「江戸の日常を知る古書」の中に展示されている。展示は5部に分かれ、地域や人物について知る古書などに続く第5部は「続出する珍奇な古書」で、珍談奇談集や当時の風俗図などが並んでいる。

 弥助の思いが銘文に残る伊文神社の通称「弥助灯籠」

 岩瀬弥助はどんな人物だったのか。明治元年の前年、1867年に生まれ、家業の肥料商で財を成した。もともと読書家だったが、古書の収集を思い立ったきっかけは、地域を代表する江戸後期の知識人の一人、渡辺政香に触発されてのことらしい。政香は「何を宝とみなすか、人によって様々だが、人間にとって必要不可欠なものは書物である」とし、自らのささやかな文庫を開設して公開するにあたって「物は何でもみんなで楽しむのが一番だ。書物も一緒に見て、日々自己を新たにしていこう」と記している。書物によって初めて、昔の出来事を後世に伝えることができるとして書物の意義を語ってもいる。塩村さんは岩瀬文庫を紹介した著書「三河に岩瀬文庫あり」の中で、ここにまさに図書館の原点があり、「書物をめぐる三河の風土には、何かすごみがある」と評している。
 弥助は資金を投じ、東京や京都など全国の古書店から、もっぱら江戸時代の古書を買い集めた。おそらく明確な意思のもとに集められた結果、ほとんど重複がなく、他にはない貴重な本が数多くあるのが岩瀬文庫の魅力と塩村さんはいう。岩瀬文庫は、三河地震で被災したり、相続税対策で売りに出されたり、さまざまな危機があったが、「地域の至宝を守れ」という市民の声に押されて西尾市が購入、存続することになった。
 ほとんど自らについて語ることのなかった弥助の思いをうかがわせるのが、岩瀬文庫にほど近い伊文神社に奉納した巨大な石灯籠の銘文だ。「われかつて、一小文庫を設立し、これを身にも人にも施し、かつこれを不朽に伝えんと欲す」とある。私的な文庫にとどめず、公的なものにすることで、彼の死後も地域の人々によって文庫は守られ、不朽の存在となった。政香から受け継いだ「高邁な理念」が実を結んだ形だ。

 岩瀬文庫の例に見るように、有名無名の数多くの先人たちがさまざまな書物を書き残してきた。「日本の書物は突出して豊かだ」と塩村さんはいう。だが、残念なことに、私たちの日々の生活の中で忘れられてしまっている。それを最大限に活用する。つまり過去の知恵を掘り起こして生かすことが今を豊かにするうえで欠かせないのではないか。「地方の時代」などと言われるが、かつて、地方には豊かな文化があり、こうした書物を残す力もあった。究極の地方の時代がすでにあった。としたら、そうした先人たちが何を考え、どう生きてきたのか、傾聴しなければ、という。
 塩村さんはまた、こうした書物を読むことによって、想像力が鍛えられるという。先人たちの生き方を、想像力を徹底的に働かせて、深く深く、もっともっと先までを理解しようと努める。さらには、そうして見つけたことをどうすれば相手に伝えることができるのか、とことん考える。それによって人間力が鍛えられる。そうして想像力と人間力を磨くこと、それはすなわち、人文学の学びでもあるという。

 名古屋大学学術憲章は「論理的思考力と想像力に富んだ勇気ある知識人を育てる」とうたっている。想像力が求められるのはむろん、人文系に限らない。むしろ、技術を通して社会を大きく変える可能性のある理系の学生にこそ必要だ。人文学がとかく軽視されがちな昨今だが、人文学が大学で果たす役割を再認識する必要がある。そうでなければ、書物を生み出し、残してくれた先人たちに申し訳ない。
 企画展は4月14日まで。3月24日には塩村さんの講演会「今年度の調査からわかったこと」もある。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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