名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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2019年04月18日

数学を支える人々

 大学での研究や教育は、さまざまな役割を担う人たちによって支えられていることはいうまでもない。あらゆる学問分野に共通の部分があれば、その分野に特徴的な部分もある。数学にかかわる人たちがちょうどこの春、それぞれに節目を迎えたのを契機に訪ねると、そのユニークな活動を通じて、ちょっと近寄りがたい感じもある数学のいろいろな顔が見えてきた。

 まず、数学博物館を作ろうという試みを中心になって進めてきた名古屋大学多元数理科学研究科の伊藤由佳理・元准教授だ。過去形で語らなければならないのは、4月から、これまで兼務していた東京大学のカブリ数物連携宇宙研究機構の教授に専念することになったからだ。4月半ばまで名大博物館で開かれたスポット展示「美しい数学」展には、数学の博物館があったらどんな展示ができるか、講義の中で学生たちに問いかけ、彼らが作ってきた作品が展示された。2014年から行ってきた試みのいわば集大成だ。3月末に会場で行われた伊藤さんのギャラリートークは、数学をぐんと身近に引き寄せ、来場者からの質問が途切れずに続いた。

多くの聴衆が熱心に耳を傾けたギャラリートーク

 科学博物館はおなじみだが、そもそも数学博物館とは? 幾何学的な模型や計算道具などの展示もまじえ、数学の理論や問題をわかりやすく紹介しながら、数学を楽しんでもらおうというもので、海外にはそうした博物館があり、科学博物館にも数学に関する展示があるという。伊藤さんは小学生の子どもを連れて博物館巡りをするうち、日本にはそれがほとんどないことに気づき、それなら自分たちで作ってみようと思い立ったのだという。
 数学が身近にあることやその面白さを伝えようと、学生たちが作り上げた作品はさまざまだ。例えば、「0.1.1.2.3.5.8.13.21.34・・・」などと前の二つの数字の和が次の数字になっている「フィボナッチ数」というものがある。多くの花の花びらの数、あるいは、らせん状に並んだひまわりの種のらせんの数など、自然界のあちこちにこの数字が現れているのだという。さらに、このフィボナッチ数を一辺に持つ正方形を並べていくと「黄金長方形」と呼ばれる長方形ができる。その縦横の比、1:1.618 (約5対8)が黄金比であり、ギリシアのパルテノン神殿やミロのビーナスなど西欧文明での美の基準になっていることはよく知られている。この比率はテレビやパソコン、名刺などにも使われているといい、この数の不思議さに大いに興味をそそられる。
 別の学生は、この黄金比に対し、縦横の比が「1:1+√2」(約5対12)でややずんぐりした白銀比を比較して論じている。白銀比は、法隆寺の五重塔や菱川師宣の「見返り美人図」、さらにはドラえもんの造形などにも見られ、日本ではこちらの方が人気があることから「大和比」とも呼ばれ、A判、B判などの紙や畳にも使われているという。
 また、正三角形の各辺を膨らませた「ルーローの三角形」と呼ばれる形をしたロボット掃除機は、円形のものとは違って部屋の隅まで掃除できること、数学的にも頑丈さが証明されている蜂の巣のようなハニカム構造が建築物やロケットの構造などに使われていること、さらには、グーグルでの検索に線型代数学の「行列」が使われていることなど、数学が私たちの生活のあちこちで役立っていることを雄弁に教えてくれる。

東大教授に転じた伊藤由佳理さん。研究以外に活動は幅広く、女性研究者を紹介する「研究するって面白い!科学者になった11人の物語」(岩波ジュニア新書)もまとめた。

 興味深いのは、学部によって展示の作り方にも違いが見られることだ。伊藤さんによれば、同じ理系の1年生でも、理学部の学生は展示の中であまり数式は使わず、手書きの素朴なポスターもあったのに対し、工学部では数式を数多く使い、かつパソコンできれいに仕上げたものが多かった。理学部生は、とかく数式は難しいと言われがちなので避けたのか。一方、工学部生にとって数学は役に立つもので、数式を使うことにもためらいがないようだ。伊藤さんは、大学に入ったばかりの1年生でも理学部と工学部で数学の受け止め方はずいぶん違うことに驚いたという。
 一方、文系学部の2年生は数学に触れるのは大学受験以来という学生が多い一方で、もともと数学が好きだった法学部生や、数学を使うことに慣れた経済学部生もいた。黄金比と白銀比の比較を通して文化の違いに目を向けたのは文系の学生だった。円周率πの小数点以下の数字をあしらった芸術作品や数学をめぐる歴史に関するものなど、「理系とはまた違う面白さがあった」と伊藤さんはいう。
 ちなみに、理学部数理学科の3年生ともなるとかなり専門的になり、初めて学んだ「群」という抽象的な概念の表現に挑んでいる。例えば、ある図形を繰り返すことで作られる布や紙のデザインは多様に見えるが、それを図形の平行移動や回転、あるいは鏡に映すなどの要素に着目して分類すると、実は17種類しかないという。「壁紙群」と呼ばれるそうだが、それを「麻の葉」や「七宝つなぎ」など日本の伝統的な模様の例などを使いながら説明している。物理や化学でおなじみの「対称性」とも関わりがあるといい、理論そのものの理解は難しいとはいえ、身近な模様から最先端の科学につながる数学の世界を垣間見せてくれる。

 こうしてみてくると、三者三様、それぞれにとっての数学やその楽しみ方がある。従って、数学に親しむためのアプローチや教え方もいろいろありそうだ。「読み書きそろばん」と言われるように、数学が基本的な素養であることは言うまでもない。とりわけIT社会といわれる今、その基盤である数学的な考え方を程度の差はあっても誰もが身につけることは重要だ。多くの人に数学に親しみを持ってもらうことをめざす数学博物館の試みは今こそ、大きな意味がある。数学博物館の展示を作る講義を楽しんだという学生たちも、理系文系を問わず、それぞれの立場なりに得たものは多かったに違いない。伊藤さんの専門は「特異点」と呼ばれるもので、東大では数学と物理をつなぐ研究を進める。さまざまな分野の学生を巻き込んだ伊藤さんの名大での足跡と志とをしっかりつないでいって欲しいと思う。

セルジュ・リシャール特任教授

 「そうそう、私のいたフランスのリヨン大学にも数学博物館のようなものがありますよ」。そういうのは、英語で学べるG 30(グローバル30)国際プログラムで数学特別講義を担当するセルジュ・リシャール特任教授だ。英語の講義にG 30の学生ばかりでなく日本人学生も参加して交流を深め、大きな成果を上げているとして、この3月、教養教育院全学教育担当教員顕彰を受けた。
 リシャールさんはスイス出身で、欧州の大学で学び、筑波大にも滞在し、その際に訪れた名大の環境が気に入ったという。G 30の教員公募に応じ、当時ポストを得ていたリヨン大学から2013年に赴任した。国によって教育制度が異なることで、本人の能力以上に差がつくことがある。そんな国々から集まった多様な学生を指導して能力を高めることに魅力を感じたというが、今まさにそれを実践して、大きな手応えを感じているという。
 数学特別講義はリシャールさんが2017年にボランティアで開講したのが始まりだ。G30の数学の講義は、リシャールさんたちG 30の教員が1、2年生向けを担当しているが、学部の専門教育としては英語で開講されていない。学びたいという学生たちの求めに応じて週1回、午後6時半から8時という遅い時間に講義することにした。評判を聞いた日本人の学生たちも参加し、G30の学生たちがノートも取らずに講義を聞き、盛んに質問する姿に驚き、大きな刺激を受けた学生も多かったという。英語に自信のない日本人学生をサポートするために、リシャールさんは学生だけで教え合うスタディ・セッションを設け、G30の学生と日本人学生とが交流する機会を作った。2018年にはこの実績が認められ、全学に開放された正式科目となった。参加した日本人学生からは「G30の学生との交流を通じて、学びに対する姿勢が大きく変わった」といった感想文も寄せられている。

 そうやって視野を広げ、自信をつけた日本人学生たちは海外に留学したり、海外の学会で発表したりしている。それを広く紹介したいと、リシャールさんはG 30プログラムで学んだ日本人学生が語る「Deep Impact 2018」というビデオを作り、大学のホームページで公開している。登場する一人、数理学科3年(当時)の津々直大さんは、リシャールさんによれば「初めは一言くらいしか話せなかったのに、1年半後には専門家の前で1時間の英語のスピーチができるまでになった」。短期間での驚くほどの上達ぶりだが、リシャールさんの指導法は、学生が黒板に数式を書きながら同時にそれを話すというものだ。「文法はしっかり頭に入っている。自分の耳で自分の英語を聞くことで、話すことに慣れていく」という。この方法は、理系の中でもとりわけ数学だからやりやすい面もありそうだが、他にもいろいろと工夫の余地があることを教えてくれる。
 多元数理科学研究科の博士課程1年(当時)の古屋貴士さんもビデオに登場し、「G 30に参加したおかげで英語を話すことに躊躇がなくなり、来月からドイツに留学します」と話している。「学生たちが育っていくことは、私にとって大きな誇り」とリシャールさんは話す。
 こうした実績もあり、日本人学生にもっとG30に参加してもらおうと、英語で補習するなどサポートするプロジェクトが昨年の秋学期から始まった。より多くの日本人学生が海外からの留学生と互いに学びあう。G30の本来の目的である、そんな環境が少しずつ広がっている。
 「名大の教育の国際化を先頭に立って牽引していく一人」と、G 30プログラムを担当する小田洋一名誉教授はリシャールさんの功績を高く評価する。
 実は、リシャールさんは日本人学生を教えるようになって、彼らがパスポートを持っていなかったことに驚いたという。これまでの欧州での経験から、大学生なら外国に出かけたことがあるはずと思っていたからだ。G 30がそんな彼らの目を外に向ける、大きなきっかけになったことは間違いない。

 こうしたキャンパスの国際化がおそらく話題にもならなかった頃から、名大の数学を支えてきた人がいる。数学教室に勤め始めてちょうど半世紀になる小崎和子さんだ。同じ理学部でも物理や化学など実験を伴う分野と違って、数学の場合は大学院生や学生が研究を支える構造にはなっていない。研究者は一人ひとり、個人で研究を行う。このため、研究を支える事務スタッフの役割が重要になってくる。いや、事務スタッフの存在なくして研究は成り立たないと言っていい。
 「数学者たちの研究を支える秘書や司書の存在が、日本の数学を世界的なものにした」というのは、多元数理科学研究科長も務めた数学者、浪川幸彦名誉教授だ。東大や京大などの数学教室も同様で、小崎さんは日本の数学を支える一人として知られている。
 例えば、1950年に創刊され、世界的にも認められているNagoya Mathematical Journal(名古屋数学雑誌)の編集にも携わってきた。海外からも含めた投稿論文を査読を経て掲載する学術雑誌だ。最近はケンブリッジ大学出版局から出版されるようになり、事務作業はなくなったが、筆者や査読者とのやりとりから校正作業まで、小崎さんが中心になって担ってきた。
 国際的な研究集会を開催したり、海外から研究者を招いたり、あるいは学術交流協定を締結したり。そのための事務作業も一手に引き受けてこなしてきた。なくてはならない存在なのである。
 研究者たちは困ったことがあると、まず小崎さんの部屋に飛び込んでくる。保健室と呼ぶ人もいるらしく、「実際に絆創膏をもらいにきた人もいました」と笑う。

小崎和子さん

 もともと福井県の出身で、1969年に高校を卒業し、岩倉市に親戚がいた関係で名古屋で公務員試験を受けた。あちこちから面接に呼ばれ、その一つが名大だった。面接では、現場に近いところで働きたいという希望と、「数学は大嫌い」ということを伝えた。そして決まった配属先が理学部数学科事務室だった。数学嫌いなら、数学ができる数学者を尊敬するだろうという話になったと後に聞いた。
 70年に勤め始め、2、3年でやめるかなとも思っていたというが、「さまざまな事を任され、面白く仕事をさせてもらいました。あっというまの半世紀」と振り返る。その役割の重要性ゆえ、数学教室には事務職員を育てようという意識が強く、外部での研修や海外研修にも参加する機会があったこともありがたかったという。
 自らの希望で異動はせず、同じ場所で仕事を続けてきた。助手のポストで65歳の定年を迎え、その後は非常勤で秘書室勤務になった。今年も、資料室や研究プロジェクトのスタッフとして勤務を続ける。余人をもってかえがたい人材なのだ。

 この間、名大の数学教室からは人材が輩出してきた。名古屋出身の森重文特別教授は、大学紛争で東大入試が中止になった69年に京大に進み、京大助手などを務めた後、80年に名大講師になった。名大時代の業績により、名大教授から京大教授に転じたその年にフィールズ賞を受賞した。小崎さんは同じ学年だったこともあって親しく、「個性的で変わった人が多い数学者の中では珍しく常識を備えた人」とにこやかに話す。
 この半世紀、おそらく誰よりも長く、キャンパスが変わるのを見てきた。かつては時間的にも気持ちのうえでも余裕があった。大きく変わったのは90年代に始まった大学院重点化以降だ。数学教室の会議は半年に1回くらいしかなかったのに今では会議だらけ、自分のペースで研究をしていた先生たちも短期的な成果を上げることに追われている。「余裕と寛容さがなくなってしまったのが残念」という。

 数学という学問、ひいては大学での研究と教育は、こうした多様な人たちがそれぞれかけがえのない役割を果たすことによって、重層的に支えられているのだと改めて思う。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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