名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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2019年08月28日

名古屋でクルマを学ぶ

 「名古屋大学での6週間のサマープログラムに参加し、自動車工学と日本文化の両方について素晴らしい体験ができました。日本へまだ行ったことがなければぜひ訪ねるようお勧めしたい。僕ももちろん、いつか再訪するつもりです」
 米ミシガン大学工学部3年生のアシュイン・クリシュナ君は昨年夏、ある報告の手紙にこう書いた。しかし、そのわずか2ヶ月後、アシュイン君は再訪を果たすことなく、この世を去った。
 手紙には、大学や企業の専門家に自動車の将来技術などについて講義を受け、名大では自動運転車も見ることができたこと、トヨタやスズキなどの工場見学ではロボット作業や「ジャストインタイム」などの日本の生産方式が興味深かったこと、京都、奈良、東京などを訪問したことなど、12カ国の仲間たちと簡単には要約できないほど多くの経験をしたと記されている。「日本ほど清潔で効率的で進んだ国を見たことがない。どこへ行っても、すべて質が高く、いい人たちばかりなのに感銘を受けた」と日本の印象をまとめている。
 大量の写真やお菓子などの日本土産とともに帰国したアシュイン君からこうした話を聞いていた父親のアービンドさんは今年6月、名大に宛てた手紙で息子の消息を伝えるとともに、「このサマープログラムは、子供の頃から車が大好きだった息子の人生で忘れがたい思い出の一つ」として、アシュイン君を記念する奨学金を設けるための寄付を申し出た。来夏から、このプログラムに参加するミシガン大の学生に奨学金が授与される。
 アシュイン君が参加したのは名大の夏期集中プログラム「自動車工学における先端技術と課題」(NUSIP)だ。2008年の創設以来、運営に尽力してきた石田幸男特任教授は、元気だったアシュイン君の姿を思い出してその早すぎる死を悼みつつ、「アシュインがこのうえなく幸せで充実した時間をすごせたことに家族は心から感謝している」というアービンドさんからの手紙に、「これだけ本人にも家族にも感謝されるプログラムになった」と疲れも吹き飛ぶ思いだったという。

2018年のNUSIPの参加者は12カ国の42人、国際色豊かな顔ぶれだ

 「大学だけでなく、企業の専門家から最先端の話を聞き、高度に自動化された工場や先端的な研究所の見学ができる。こんなところはちょっと他にはない」と石田さんは話す。参加費や渡航費など学生の自己負担は約50万円になるのにもかかわらず、40人の枠に世界各国からの参加希望が多く、狭き門になるゆえんだ。
 始まったきっかけは、1980年から提携を結んでいるミシガン大工学部から2005年、「名大の学生がミシガンに来るばかりで逆はほとんどなく、交流になっていない。ミシガン大の学生も名大に送りたい」という手紙が届いたことだった。受け入れるには、英語の講義でなければならない。さらに重要なのは、全米でもトップ校の一つであるミシガン大の学生に来たいと思わせる内容だ。工学部内での議論で、自動車がテーマとして浮上した。というより、海外にはなく、学生も来たいと思うプログラムが作れるテーマは自動車しかない、という結論になった。
 東海地方にはトヨタ自動車を始め、車とその関連のトップ企業が集積する地の利があり、そうした企業で卒業生が多く活躍していて名大とのつながりも強い。自動車技術は材料からコンピューターまで幅広く、総合工学でもある。そして、何より、T型フォードが1908年に登場して以来、自動車技術がまさに100年ぶりくらいの大変革の時代を迎えつつあることだった。トヨタが開発したハイブリッドエンジンが注目され、電気自動車も登場しつつあった。タイミングもいい。
 地の利を生かして、変革の時代にふさわしい、世界中どこにもないプログラムを作る。当時機械工学の教授だった石田さんはそう目標を定め、2年かけて6週間のサマープログラムを作り上げた。企業の技術者にできるだけ率直な話をしてもらうため、講義資料の電子ファイルは配布しないなど企業秘密に配慮したルールも決めた。
 参加者は当初、ミシガン大など名大の提携校に限られていたが、他大学にも広げた。
 アシュイン君を記念する奨学金は、ミシガン大からの参加者のうち、成績がトップの学生に贈られる。ミシガン大との連携で始まったNUSIPが、海外の学生が参加したいプログラムとして定着してきたことを象徴的に示している。

企業訪問も楽しんだアシュイン・クリシュナ君

 海外の学生にとって魅力的なプログラムは、日本人学生にとっても魅力的なはずだ。名大生は10人、無料で参加できる枠があるが、日本人学生の参加はあまりないのが実情だ。講義も発表もすべて英語で行われるのがネックになっているらしい。
 そこで、いわばNUSIP日本版が2017年からスタートした。大学院生を対象にした1年間の「先進モビリティ学プログラム」だ。自動車技術の基本からクルマの電動化、知能化までの最先端について学ぶのに加え、後期はNUSIPにはないさまざまな実習に取り組む。名大の学生フォーミュラチームに加わって、電気自動車の設計製作の経験もする。このチームは、手作りのフォーミュラカーで競う全日本学生フォーミュラ大会の電気自動車の部で3連覇している強豪だ。また、トヨタの協力により、研究所や製造ラインなどの見学や研究開発の担当者とのディスカッションもある。このプログラムも学生の人気は高く、十数人で始めたところ、2年目からは倍増したという。
 「単なる知識習得でなく、自ら手を動かし、システムとしての自動車を学び、考えてほしい」とモビリティ社会研究所長の鈴木達也教授(機械システム工学)は話す。将来は企業の人にも開放したいという。
 2011年に始まった、英語で学位が取れる国際プログラムG30でもNUSIPの成功をもとに自動車工学コースが開設され、最も人気の高いプログラムとなっている。「自動車工学の名大」として国際的にも知られるようになった。
 こうした海外の学生向けの人気プログラムがようやく、日本人学生向けに設けられた形だ。海外から学生が競ってやってくる、そんな学びの機会を日本人学生も生かさない手はない。地の利に加えて研究の蓄積もある。外からの目が、そんな名大の魅力に気づかせてくれたともいえそうだ。

鈴木達也教授(左)と、研究中の自動運転のEV車

 では、名大では自動車に関連してどのような研究が行われているのか。
 最近では例えば、高齢者のペダルの踏み間違いを警告する装置が話題になった。この春、高齢者の暴走事故の報道が相次いだことから注目を集めたのだが、「高齢者が元気になるモビリティ社会」の実現をめざす研究プロジェクトの中で、高齢者が安心して安全に運転するための支援の一環として研究されてきた。
 この研究を進めてきた未来社会創造機構の青木宏文特任教授によると、背景には、高齢者の運転特性のデータの蓄積がある。そのために導入されたのが、世界初、4K映像によるバーチャルリアリティを使った没入型の運転シミュレーターだ。メガネをかけて運転席に座ると、現実の道路環境の中に入って運転している感覚が得られる。車の振動なども再現されている。さまざまな状況を作り出し、ドライバーがどう対応するか、視点の動きや反応速度を調べ、疲労やストレスなど身体状況の分析もする。約400人のボランティアの協力を得て、5年にわたって高齢者の身体能力と運転との関係が調べられた。

実験車両の横に立つ青木宏文特任教授

 そのデータをもとに、高齢ドライバーに起きがちなペダルの踏み間違いを減らす方策にも取り組んだ。コストも考慮して開発されたのが、警告音とともに「アクセルを離してください」という表示が出る装置だ。同時に燃料も遮断される。実際に、警告音によってアクセルからブレーキへの踏みかえの反応時間が短くなるというデータも得られたという。デンソーとの共同開発により、昨年12月に製品化された。
 青木さんはもともと有人宇宙開発に関心があったという。米マサチューセッツ工科大(MIT)で、宇宙飛行士の特性に合わせて宇宙ステーションのシステムを開発する研究にも取り組んだ。帰国後、トヨタで車を自動的に止めるシステムの開発などに6年携わり、2013年に名大に転じた。宇宙から車へ、かけ離れているようにも見えるが、人間の特性の十分な理解に基づくシステム作りという点では同じだ。
 一方、名大の車の研究といえば、現在最も注目されているのは自動運転かもしれない。名大生まれの自動運転の基本ソフトウエアは世界中で使われており、それをもとに自動運転システムを開発する名大発ベンチャー「ティアフォー」とともによく知られている。

実際に運転しているような感覚が得られる没入型シミュレーター

 これまでの研究を集約・発展させる形で今年4月に発足したのが、未来社会創造機構モビリティ社会研究所だ。「ヒューマン・セントリック・モビリティ」、つまり人間中心の移動技術をビジョンとして掲げ、自動運転などクルマそのものから社会システムまでを見据えた研究に取り組む。参加する研究者は工学から人文社会科学まで幅広い。先述の教育プログラム作りを進めた鈴木さんが所長を、青木さんはその企画戦略室長を務める。
 その多様な研究者を訪ねると、将来のモビリティをめぐってさまざまな可能性、そして課題があることが見えてくる。例えば注目の自動運転がどう広がっていくのか、研究者によって見方は異なり、さらに専門が違えば、全く別の光景が見えてくる。そもそも人がクルマを運転するとはどういうことか。突き詰めていくと、機械と人間の関係という、根源的なテーマにも行き当たる。
 クルマ、ひいてはモビリティはこれからどうなっていくのか。あるいは、どうなっていくことが望ましいのか。工学だけの問題では決してない。総合大学で考えるのにふさわしいテーマだ。次回は、そこを追ってみたい。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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