名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
大学の今を自由な立場で綴っていきます。

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 「クルマは、認知科学の立場から見て興味が尽きません」。そう話すのは、名古屋大学情報学研究科の三輪和久教授だ。クルマはいうまでもなく、人間に移動の自由という大きな力をあたえる道具だ。それをごく当たり前のように運転しているが、実は、知覚、記憶、運動など高度の認知的能力を必要とする。そして、時に生命に関わるリスクもある。ウインカーを出すのは行動の前の予告に当たり、通常ではないことだ。つまり、クルマを操るということはかなり特別なことなのだが、運転するときにそういう意識を持つことはほとんどない。特別であると同時に当たり前、なんとも不思議な道具だ。
 今話題の自動運転が登場すると、どうなるのか。バラ色の未来かと思いきや、三輪さんは意外にも、「必ずしもドライバーの幸せにはつながりません」という。
 4月に発足し、7月末に設立記念シンポジウムが行われた名大の未来社会創造機構のモビリティ社会研究所が掲げるビジョンは「ヒューマン・セントリック・モビリティ」、つまり人間中心の移動である。クルマといえば、「100年に一度の大変革」が昨今の枕詞だが、新しい技術を社会の中でどう使えば人々の幸せにつながるのか、クルマそのものはもちろん、それを超えた課題に取り組むために、自動車工学を中心に、さまざまな分野の専門家が集まっている。三輪さんもその一人だ。訪ねてみると、そこには驚くほど多くの課題があることに気づかされる。しかも一筋縄ではいかないようなものばかりだ。

ドライバーの幸せ度を示したグラフを背に語る三輪和久教授

 三輪さんは、縦軸にドライバーの幸せ度、横軸に自動運転のレベルを表したグラフを見せてくれた。レベル1、2はハンドルやブレーキ操作をサポートするもので、運転支援と呼ばれる段階だ。高速道路など特定の場所では自動運転ができるのが3、4だが、3ではまだ緊急時などに人間が操作する必要がある。場所を選ばず、どこでも人間の操作が一切不要になる、つまりハンドルもアクセルもブレーキもない完全な自動運転がレベル5だ。グラフを見ると、3の幸せ度が最も低い。
 機械は人間を補助するはずなのに、3では逆に、人間は常に監視しなければならず、機械を助ける形になっている。いわば主客逆転だ。何もしないでいれば運転能力や注意力も低下しがちになる。そんな中で突然対応を迫られるから、危険ですらある。これでは幸せとは言えない。レベル5で初めて、幸せ度がぐんと上がる。
 つまり、このレベルは、1から順に進んでいくものではない。特に人への負担が大きいレベル3には否定的な見方が少なくない。例えばグーグルは、そこは飛ばして、完全な自動運転をめざしている。
 もっとも、将来レベル5の自動運転が実現したとしても、自分で運転したい人はいるだろうから、そうしたクルマとの共存を図るという課題は残る。車線変更や追い越しなどの際に、自動運転か人の運転かで動きが違う可能性がある。互いに違和感なく走れることが重要だ。「機械が高度化すると、人間というファクターが重要になってくる」と三輪さんはいう。機械に高度な支援を受けることで人の能力が下がるのでなく、より伸ばす方向で使っていくことも課題だという。

森川高行教授は、自動運転車の実証実験も担当している。

 一方、社会との関わりが深い土木工学からは、また別の課題が提起されている。クルマが大きく変わるとしたら、そしてそれをうまく生かそうとしたら、道路環境やルールなども変える必要がある。その数がきわめて多いというのがクルマの特徴でもある。交通のあり方は、住まい方やまちづくりを変える可能性もある。
 土木工学の森川高行教授は交通システムへの影響を探っている。自動運転車は右折の際にモタモタして流れを乱すなどの可能性があるが、そんな挙動の違う車が一定量入ってきたらどうなるか、シミュレーションしている。30%になれば、専用レーンを設けた方が効率は上がりそうだという。また、どこへでも手軽に連れて行ってくれる自動運転のロボタクシーのようなものが出てきたら、個人の車の保有は減るかもしれないが、便利で安ければ、利用が増えて大渋滞したり、公共交通機関が衰退したりと、思わぬ結果を招くかもしれない。都市部を避けて郊外に町が広がり、人口減少時代のコンパクトシティーに逆行するかもしれない。
 森川さんは、「環境への負荷や社会的な公正さなども考え、すべての人が移動の自由を得られるモビリティ社会の姿を長期的に考えて手を打っていく必要がある」と話す。

 クルマをめぐっては、「つながる、自動運転、シェアリング、電動化」の頭文字をとった「CASE」が盛んに語られ、さらには「MaaS」(サービスとしての移動)、つまり、あらゆる交通手段をつないで移動というサービスとして提供しようという試みも始まっている。そこでは、個人が所有して運転するクルマはもはや主役ではなくなる。20年もすれば自動車産業から移動サービス産業へと産業構造もガラリと変わる、そんな未来像を描いてIT企業の果敢な挑戦も進む。
 だが、森川さんは「モビリティをめぐる状況が10年や20年でガラリと変わることはない」とみる。1908年のT型フォードの登場は、それまで全くなかった個人の移動を可能にし、まさに一大変革だった。今回はそこまでの劇的な変化ではない。しかし、いずれ大きく変わることは確実なので、長期的な備えが必要というゆえんだ。
 研究所ではほかにも、移動を中心にもっと広く情報サービスを考えたり、どこまで安全なら社会に受け入れられるのか、といった研究も進められており、実に幅広い。

武田一哉教授はマネージメントに力を入れる。「若い人たちと一緒に研究を動かしていきたい」

 クルマそのものでは、実は名大は自動運転の世界ではよく知られた存在だ。2015年12月に設立された名大発ベンチャー「ティアフォー」が自ら開発した自動運転の基本ソフト「オートウェア」を無償で公開し、世界中で使われているからだ。このソフトを車のコンピューターに組み込み、あとは車の周囲の環境を知ることのできるセンサーなどがあれば、車を自動運転で走らせることができる。
 開発したのは、当時名大情報科学研究科の准教授だった加藤真平さんだ。パソコンの基本ソフト(OS)のようなものだが、無料で開放して多くの人に使ってもらう戦略をとった。それが功を奏してユーザーは世界に広がり、これまでに企業などから得た出資金は123億円にのぼる。加藤さんは16年4月から東大に転じ、ティアフォーには役員として関わっている。昨年12月には普及を図るための業界団体「オートウェアファンデーション」を設立、代表理事に就任した。トヨタ系の研究開発会社のほか、半導体メーカーや通信会社など世界中から40社以上が参加し、オートウェアを世界標準にするための活動を進めている。ライバルは、中国の検索大手百度(バイドゥー)が開発して広げようとしているソフト「アポロ」だ。
 現在、同社の社長は、米国から帰国して名大に赴任した加藤さんが自動運転ソフトの研究を始めるのをサポートした縁で、武田一哉教授が務めている。モビリティ社会研究所の副所長でもある武田さんは音の情報処理が専門だったが、人の行動データの分析から行動を理解しようという行動情報処理へ、そして、人の状態や意図を理解して対応する自動運転システムの開発へと、テーマは広がってきた。
 人間をもっと理解することが必要だと考えて誘ったのが冒頭の三輪さんだ。高校の後輩で、かつ工学部出身の認知科学者とあって言葉も通じやすく、格好のパートナーとなった。
 「10年たてば、技術の世界は大きく変わる。変化を先導し、技術のインパクトを想像できる人材をもっともっと育てたい」と話す。

名大で開発中の自動運転の実験車

 モビリティ社会研究所の所長を務める鈴木達也教授はシステム制御工学が専門で、自動運転とのかかわりも長い。米国に滞在していた2000年頃は自動運転がブームで、高速道路での走行実験が盛んに行われていた。しかし、一般道での合流などがうまくいかずに研究が下火になっていった。そんな経験もあり、技術の発展にはまだまだ波があるだろうと見ている。
 研究所では、ビジョンとして掲げる人間中心の移動システムに向けて研究を進めるとともに、学術的な価値を社会的な価値に変換できるような人材の育成にも寄与したいと話す。

 さて、これからどうなるのか。モビリティの将来をめぐっては、IT業界が描く未来像から現実的な予測まで幅がある。こうした多様な視点こそが重要だ。
 クルマの社会的、経済的な重要性は言うまでもない。クルマが変われば、社会が、そして世界が変わる、と言えるかもしれない。取り組むべき課題は、クルマそのものはもちろん、それを超えたところにも数多くあり、それらはクルマの技術とも決して無縁ではない。自動車とその関連産業が集中して立地する東海地域にあって、自動車工学のメッカと目される名大が、まさに総合大学として取り組むべき課題だろう。認知科学など、産業界が大学に期待するテーマも少なくない。鈴木さんは、工学だけでなく、人文社会系の研究者も巻き込んでいきたいという。
 名古屋で考えるクルマ、そしてモビリティ。これからが楽しみだ。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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