名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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2019年10月18日

モンゴルの新しい風

 ジャンチブ・ガルバドラッハさんは現在56歳、名古屋大学教育発達科学研究科の博士課程の学生だ。本職は、小中高一貫校や工科大学、高専など4校を傘下に抱えるモンゴルの私立学校、新モンゴル学園の理事長である。この学園は、東北大学の博士課程在学中だった19年前、モンゴルで日本式の教育を行いたいと自ら高校を創設したのが始まりだ。夢の実現を急ぎ、帰国するまで待ちきれなかったからだが、結果的に博士論文を書く余裕がなくなり、満期退学することになった。そして、実績を積み重ねてきた今、その経験を生かしてモンゴル全体の教育改革の先頭に立ちたいと、再び博士課程に挑んでいる。
 名大を選んだのは、新モンゴル学園と名大教育学部の附属学校はテレビ会議による共同授業や生徒の派遣などの交流があり、その中で、仕事をしながら博士号が取れるアジアサテライトキャンパス学院の国家中枢人材養成プログラムが教育学の分野でも始まることを知ったからだ。ふだんはウランバートルで仕事をしながらテレビ会議を通して指導を受け、一年に2回程度、名大にきて直接指導を受ける。
 昨年秋からは元横綱日馬富士公平さんが設立した新モンゴル日馬富士学園の校長も兼ね、超多忙な毎日だが、32歳の時に日本に初めて留学してから約四半世紀、日本に学びながら進めてきた新しい教育の集大成として論文にまとめたいと意気込んでいる。
 名大とモンゴル、これまでもさまざまな連携が進められてきたが、また新たな世界が広がろうとしている。

9月初め、スクーリングのために名大キャンパスを訪れたガルバドラッハさん。3女も現在、同じ研究科の博士課程に在学している。「モンゴルの大地に日本の風を」がモットーだ。

 留学中の学校創設もそうだが、ガラーさん(と呼ばれているそうだ)の人生は、時には無謀とさえ思えるほどの大胆な挑戦の連続に見える。教育にかける情熱に突き動かされてのことに違いない。もっとも、「なぜこんなことを始めてしまったのか」と後悔したことも1度や2度ではないというが、その都度「風が吹いた」、つまり背中を押してくれる人たちがいて、続けることができたという。
 最初は、山形大学の修士課程に在籍していた時だ。モンゴル国立大学で物理を学んで教員の道に進み、さまざまな学校で教員として働いた後、文部省(当時)の教員研修プログラムに応募し、山形大学に1年留学した。その後さらに、「戦後日本の物理教育の展開とその国際比較」をテーマに修士課程に進むことにした。しかし、私費留学だったうえ、発展した日本の姿を見せたいと、妻と4人の娘を呼び寄せていたことから生活は大変で、「"苦"留学生だった」という。
 朝5時から7時まで新聞配達、9時まで娘たちの勉強を見てから大学へ、大学が終わった5時から8時まで運送屋でアルバイト、さらに午前零時まで居酒屋でウエイターとして働いた。新聞配達はジョギング、運送はジム、居酒屋は日本語の勉強と思うようにしたというが、「なぜ日本に来たのか」と自問したこともあった。睡眠時間は4時間。妻も清掃の仕事をして家計を支えた。

 そんな折、留学生対象の作文コンクールがあった。テーマは「私の夢」だった。「学校を創る」と題して応募、見事に入選して50万円の賞金を得た。毎日三つの仕事をこなして得る月収が合計で15万円だったから、夢のような大金だった。実は作文のために作った「夢」だったが、入選して本気になった。その後、ロータリークラブの奨学金を得たこともあり、恩返しのためにも学校を作らなければと決意した。
 ではどんな学校を作るのか。日本の発展の鍵は質の高い教育にあり、とりわけ高校の役割が大きいと考えた。長女は山形の県立西高校から東北大の法学部に合格したことから、モデルをこの高校に定めた。学校作りのために「モンゴルにおける高等学校カリキュラム開発」をテーマに東北大の博士課程に進学し、親子で東北大生と地元で話題になったそうだ。そんなガラーさんを資金面で応援しようと、地元有志の会もできた。背中を押されるように、日本とモンゴルを往復しながら土地を取得し、学校の設計も進めるなどして2000年5月、モンゴルで初めて、3年制の日本式高校、新モンゴル高校の設立にこぎつけたのだった。
 作ったものの、運営は課題だらけだった。山形県や宮城県の有志からの寄付を中心に借金もした。「なぜ学校を作ってしまったか」という思いがよぎったこともある。国を背負うリーダーの育成を目標に、日本語教育はもちろん、制服や給食、部活動なども含めて日本式の教育を進め、ガラーさんが博士課程を終えたのと同じ2003年3月、第一期生が卒業した。以来、1850人の卒業生のうち、424人が日本の大学に留学するなど計650人が海外に留学し、世界で活躍しているという。
 2014年には小中学校もできて高校までの一貫校となった。モンゴルではトップクラスの私立校となり、授業料も高くないことから人気の高い難関校だそうだ。さらに工科大学、高専、幼児教育の子ども園も次々に設立、これらを総合する組織として新モンゴル学園を創設し、ガラーさんが理事長を務めている。校長はいずれも日本の大学への留学経験者で、母校にならった学校運営をしている。

新モンゴル高校で野依特別教授(左)を迎えたナランバヤル校長(左から2人目)は東京外語大と京都大の出身だ。その右に、ガルバドラッハ理事長と日馬富士さんが並んで野依さんを歓迎した。

 この新モンゴル高校を8月末、名大の野依良治特別教授が視察に訪れた。モンゴル国立大学の招きでウランバートルを訪問した折のことだ。校舎には、モンゴル語と並んで「新モンゴル高等学校」と日本語の表示が大きく掲げられており、野依さんが真っ先に案内されたのは、その校舎の前に立つ台座だった。卒業生からノーベル賞受賞者、国連事務総長などが誕生したら、その像を立てるのだという。
 出迎えの中には日馬富士さんの姿もあった。「16歳で日本に行き、以来相撲を通してさまざまなことを学んできました。その恩返しの意味もあり、モンゴルでの人づくりのために学校を作りました」と野依さんに語りかけた。ガラーさんによれば、日馬富士さんは学校を作りたいと3、4年前からガラーさんに相談していたが、簡単なことではないと3回断ったという。しかし、さらに懇願され、そこまで考えているならと、新モンゴル高校と同様の小中高の一貫校を作る手伝いをすることになった。カリキュラムも同じ、いわば姉妹校で、新モンゴル日馬富士学園と名付けられた。最初はガラーさんが校長として運営にあたり、日馬富士さんはまず理事長になり、3年後には自身が校長を務めることになっている。
 新モンゴル高校では、生徒たちが伝統的な踊りや中島みゆきの「地上の星」の歌などで野依さんを歓迎し、野依さんは「世界の人々と協力してさまざまな問題を解決する人になってほしい」と生徒たちに語りかけた。地球の温暖化への対応など、生徒たちの質問は途切れることなく続き、時間切れで会場を後にする際、野依さんは思わず、「君たちが成長した姿を見に、ぜひまた戻ってきます」と手を振りながら約束した。名大で学んで戻った若い教員が「ノーベル賞級の人材を育てたい」と言えば、生徒たちも「科学五輪で金メダルを」などと元気に夢を語り、若い情熱に大きく心を動かされた様子だった。

ウランバートルで特別講演する野依特別教授

 野依さんはモンゴル国立大学でも若い情熱に触れた。ガラーさんの母校でもあるこの大学は、1942年にモンゴルで最初に設立された大学で、最難関校として知られる。これまでは高等教育機関としての位置づけだったが、政府が四つの大学を研究大学に転換する方針を打ち出し、その筆頭として、名大に組織作りなどの支援を求めている。名大とは2006年に学術交流協定を結んでおり、昨年秋に名大の松尾清一総長がモンゴル国立大学を表敬訪問したのに続き、今年3月にはモンゴル国立大学のトゥムルバータル学長が名大を視察に訪れて意見交換した。その中で、モンゴル国立大学からの強い要望により、日本を代表する研究者として野依さんの訪問が決まった。
 野依さんは、モンゴル国民大会議のザンダンシャタル議長や教育・文化・科学・スポーツ省のバータルビレグ大臣と会談し、その後、「私はどこから来たのか、君たちはどこへ行くのか」と題して講演した。続いて、名大の若手研究者2人も交え、モンゴルの若手との意見交換会も行った。科学技術は世界的競争になっているが、未来を切り拓くには協調こそが大切とし、これからを担うのは若い世代だとして励ましの言葉を贈った。
 初めてのモンゴル訪問を終えた野依さんは「若さが印象的だった。モンゴルから新しいものが出てくる可能性も十分あると思う。今回の訪問を機に、人の交流を発展させてほしい」と感想と希望を語った。

モンゴル国立大学で行われた意見交換会には、モンゴルの主要大学・研究機関の若手研究者に加え、名大の西澤淳・高等研究院特任講師と笹野遼平・情報学研究科准教授も参加、研究のあり方や研究費をめぐる課題などを議論した。

 モンゴルはアジアの中でも、名大の研究者が幅広い分野で関わりを持っている国の一つだ。2006年に日本語で日本法を教える「日本法教育研究センター」、16年には災害や環境などの分野で学際的な研究や教育を行う「レジリエンス共同研究センター」がモンゴル国立大学に設立され、防災教育も含めさまざまな活動を展開している。また、アジアサテライトキャンパス学院の国家中枢人材養成プログラムには、ガラーさんが参加している教育学のほかに、法学、医学、環境学の分野でも学生が学んでいる。
 国際水準の研究、教育を実現したい。そんな夢に向けて、ノーベル賞受賞者を多く生み出した名大への期待は大きい。だが、研究大学づくりは容易なことではない。名大自体、新しい大学の姿を求めて模索が続いている。これまでの蓄積を生かし、名大ならではの支援の形を探ってほしいと思う。

ウランバートルの中心部にある政府宮殿。入り口正面にはチンギス・ハーン像があり、市民の敬愛を集めている。右側の通りをはさんで後方にモンゴル国立大学がある。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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