名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
大学の今を自由な立場で綴っていきます。

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 名古屋大学大学院医学系研究科の濵嶋信之教授は10月末、ミャンマーの旧首都ヤンゴンから車で約4時間、ジョビンガウッ郡の農村にある病院を訪ねた。ベッド数50、地方の小さな私立病院だが、はるばる訪ねたのは理由がある。この病院は、名大大学院で医療行政を学んだ卒業生によって2013年に設立され、地域医療の新しいモデル作りをめざしている。実情を視察し、今後の支援に役立てるのが訪問の目的だ。
 名大が力を入れるアジア諸国での人材育成の中で、人々の生命に直結する医療は重要な分野の一つだ。育った人材は母国の医療システムを向上させるべくさまざまな場所で活躍している。医療行政の専門家として指導に当たってきた濵さんは、卒業生と連絡を密にして必要な支援をしていきたいと考えているが、地域によって医療をめぐる状況は大きく異なり、それを踏まえないと有効な支援にならない。そのため、さまざまな機会をとらえて、卒業生たちが働く現場を訪ねている。今回も、ミャンマーで唯一の公衆衛生大学院大学と名大が来年初めに協力協定を結ぶ予定となっており、その打ち合わせをするのがもう一つの目的だった。

アウンミンミンモー病院のホール。両側に診察室、検査室、薬局などが並んでいる。椅子を片付けてイベントなどにも使われる。

 この病院を作ったのはニーニーラットさん、もとはミャンマーの保健省の行政官だった。文部科学省の奨学金制度「ヤング・リーダーズ・プログラム(Y L P)」の一環として名大が開設した医療行政修士コースに2005年、1000人を超える国内の応募者からたった一人選ばれ、ミャンマーからの第1期生となった。1年間在学し、「がん患者の動向」の研究で修士号を取得した後、仕事に復帰した。そして2014年、名大アジアサテライトキャンパス学院の「国家中枢人材養成プログラム」に参加、今度は仕事をしながら4年かけてタバコ対策の研究で博士号を取得した。
 これらのプログラムはいずれも、アジア諸国の政府などでリーダーとなるべき人材の養成をめざしている。ミャンマーからのトップバッターとなったニーニーラットさんは、医療政策の担い手としてとりわけ期待が大きかったが、軍事政権の影響下にある政府に限界を感じ、悩んだ末に退職して出身地で新たな病院作りをめざすことにしたという。

病院の受付に立つニーニーラットさん。民族衣装のロンジー姿で休む暇なく病院内を歩き回って声をかける。実にエネルギッシュだ。

 ミャンマーでは基本的に、政府が運営する病院での医療は無料で、患者は薬代のみ負担する仕組みだ。しかし、ニーニーラットさんの地域の公立病院には常勤医師が3人しかおらず、専門的な医療は受けられない。そこで、親族の支援を受けてアウンミンミンモー病院を設立、専門医による医療態勢を整えた。消化器内科、産婦人科、整形外科、精神科、耳鼻科、皮膚科、放射線科などで、医師は常勤10人に加えて非常勤12人、看護師や薬剤師、事務員などスタッフは総勢200人を超える。被曝が少ない最新型X線検査装置なども導入した。さらに高度の医療が必要なときはヤンゴンの病院に送ることになっている。
 患者にとって医療費負担は決して小さくないが、専門の医師に診てもらうために大勢の患者がやってくる。どうしても支払えない人の場合は無料にすることもあるという。
 政府の支援なしでこうした非営利の病院を運営していくのは並大抵のことではないとニーニーラットさんも認める。検査費などさまざまな形で収入を確保しつつ、スタッフに対しては、常に高い意欲で仕事に臨める環境作りに努め、「自分の親と思って患者に接するよう」求めているという。全部署の責任者が参加する全体ミーティングもその一つで、現状報告に加えてさまざまな課題について積極的な意見交換が行われていた。
 濵さんは2日間にわたり、病院の施設や病棟などを見て回った。「現実の制約の中で工夫しながら、非常に努力している様子が印象的だった」と話し、ミャンマーの医療を進めていくうえで、新たなモデルになって欲しいと期待する。

 血圧や血糖の測定器などの医療器具を持参し、看護師らに説明する濵嶋信之教授(右)。

 ニーニーラットさんは、「名大に留学して、知識を身につけるだけでなく、各国から来た仲間たちと交流することで、狭かった自分の視野が大きく広がった」と話す。とくにY L Pでは、アジア諸国から集まった10人の学生たちが1年間、共に過ごしながら学ぶので結びつきも強い。
 アジア諸国のリーダーを育成する目的で文科省が始めたY L P は、名大の他に政策研究大学院大学など3大学に4コースが設けられているが、行政学やビジネスが対象で、医療分野のプログラムは名大だけだ。2003年のスタートに関わった医学部の伊藤勝基教授(現在は名大参与)は、学生が本国に戻って医療政策に携わる際には経済学が欠かせないと考え、学内での激論の末、医療行政のコースを提案することにしたという。実は、日本ではこの分野は手薄で、名大でも初めてとあって、「自分たちが一番学ぶことになった」と振り返る。
 対象は東南アジアや中央アジアなどの13カ国で、学生は主に保健省所属の医師などから選ばれる。講義や施設見学などをこなしながら、自国の医療について予め集めてきたデータをもとに論文をまとめる。産婦人科医としてアジアにかかわるうちにY L P担当に転じた山本英子准教授は「自国で政策を考えるときに日本の経験を役立てて欲しい」と話す。
 2019年9月までに182人が卒業し、保健省の局長や課長などになった卒業生も少なくない。ミャンマーからは17人で、モンゴルやカンボジアなどに続いて多い。昨年行われたY L P15周年を記念する式典では、ニーニーラットさんが卒業生を代表して挨拶した。

 こうした卒業生たちを見ていて頭に浮かんだのは、名大の前身である愛知医学校の校長を務めた後藤新平だ。医師としての若き日の足跡をたどるミニ展示会「後藤新平〜名古屋活躍編」が11月末まで附属図書館の医学部分館で開かれていた。会期中、「パブリックヘルス=人々の健康を守る 後藤新平の築いた『公衆衛生』から『グローバルヘルス』へ」と題した青山温子名誉教授による特別講演も行われた。後藤は東京市長も務め、関東大震災後の復興で今日の東京の骨格を作ったことなどでよく知られるが、彼が名古屋で心血を注いだのは「衛生」、文字通り「人々の健康を守る」ことだった。いわば公衆衛生であり、今日で言うグローバルヘルスにつながるものだ。同時に、「人々の生命と健康を守る」ことを貫いた行政官そして政治家として、今日まで称えられる原点ともなった。
 途上国の人々の健康を守るために貢献することは、はるか時を経てそうした後藤の思いをつないでいくことにもなるだろう。

「明治初年愛知県公立病院外科手術の図」(附属図書館医学部分館蔵)。中央片膝姿で執刀するのが後藤新平。

 後藤は1857年、水沢藩士の子として現在の岩手県奥州市に生まれた。藩が明治新政府と対決したことから、苦学しながら医学校に通った。恩人が愛知県令となったこともあり、1876年、愛知県公立病院の医師として就職した。病院には医学校もあり、お雇い外国人であるオーストリアの医師ローレツが教鞭をとっていた。後藤はローレツに才能を認められ、1881年に愛知医学校、愛知病院と改称されるのと同時に、学校長と病院長に就任した。24歳の若さだった。
 自由党の板垣退助が岐阜で遊説中に襲撃された際、政府ににらまれる恐れから尻込みする医師が多いなか、駆けつけて治療に当たったのはその翌年、1882年のことだ。板垣は「医師にしておくのは惜しい人材」と言ったとされる。
 当時の後藤の姿を浮世絵師が描いた「明治初年愛知県公立病院外科手術の図」が附属図書館の医学部分館にある(写真上)。中央の執刀医が後藤で、左端に立って麻酔をかけているのがローレツ、老人のように描かれているが、実際は30歳そこそこの青年医師だった。後藤の脇で患者の腕を支えているのが、数カ国語に通じた語学の天才、佐渡島出身の司馬凌海で、ローレツとともに公立病院に赴任していた。司馬はポンペらに師事して医学も学び、蛋白質、十二指腸、窒素などの医学用語の日本語訳を多く作り、幕末の医師らを描いた司馬遼太郎の「胡蝶の夢」にも登場している。
 公立病院、公立医学校の前身である仮病院、仮医学校は1871年、名古屋藩によって設置された。これが名大の創基とされるが、内外の俊秀が集い、近代医学の黎明期でもあった草創期の息吹を伝えるこの絵画は、分館の宝物として大切に保存されている。

 後藤は病院長就任から2年後には内務省衛生局に転じ、そこから多方面での活躍が始まる。
 公衆衛生の面では「国家衛生原理」を著し、水道水の塩素消毒を始め、健康のため海水浴を勧めたりした。台湾総督府の民政長官時代には「生物学の原則」による統治を唱え、上下水道や道路など交通基盤の整備を進め、近代的な町作りに貢献した。さらに、南満州鉄道初代総裁、逓信大臣、初代鉄道院総裁、内務大臣、外務大臣、そして帝都復興院総裁など、驚くほど多彩な要職を歴任している。鉄道のレールの広軌化の構想を持ち、郵便ポストを黒から赤に変えたりもした。晩年は「政治の倫理化」に努めた。
 図書館の医学部分館で後藤関係の資料の整理に当たった蒲生英博さんは、「ウィーン大学仕込みのローレツから学んだ衛生行政思想と実証科学的な発想法をもとに、高い志と大きな構想力で時代を切り開いた。そんな後藤の生き方には感嘆するしかない」という。

 さらに過去をさかのぼると、もう一人、名大の創設にかかわる傑出した人物がいる。江戸時代末期、1803年に尾張国(現在の名古屋市)の医家に生まれて蘭方医となる一方、シーボルトに西洋の植物分類学を学び、雄しべ、雌しべ、花粉などの用語を作ったことでも知られる植物学者、伊藤圭介である。日本で最初の理学博士でもある。種痘所を作って種痘の普及に努めるとともに、洋医学校の設立を医師仲間と名古屋藩に建議した。そして1871年、種痘所がもとになって仮病院、仮医学校ができた。伊藤自身はその前年、67歳で東京に移っており、直接かかわってはいない。なお、東京大学のように種痘所設置を始まりとする大学も多いことから、種痘所設置の1852年を名大の創基とする説もある。
 79歳で4年前にできたばかりの東京大学教授となり、86歳の時に学位を受けた。

名古屋大学博物館の企画展「ボタニカルアートと植物分類学ことはじめ」で展示されている「錦窠植物図説」。門外不出と記されている。

 名大博物館で2月22日まで開かれている企画展「ボタニカルアートと植物分類学ことはじめ」では、伊藤が90歳を過ぎてまとめた手稿本「錦窠植物図説」も紹介されている。
 合わせて、名大トランスフォーマティブ生命分子研究所(I Tb M)の東山哲也教授による「伊藤圭介が見た花の世界を最先端研究で探る」と題した講演も12月11日に行われた。東山さんは、花粉管が誘導される仕組みの発見で知られる植物学者で、花粉、雄しべ、雌しべと、まさに伊藤が命名したものを研究テーマとしている。東大から名大に移るに当たり、いわば大先輩でもある伊藤の名前を聞かされていたが、調べてみて、江戸後期の学者の能力、伊藤のスーパーマンぶりに驚いたという。長崎でシーボルトに師事したのはわずか半年だったが、リンネの弟子で日本の植物学の祖とされるツュンベリーの著書「日本植物誌」を託された。それだけ信頼されていたことがわかる。そして、ほとんど本もないなか、1年半ほどで翻訳して「泰西本草名疏」を出版した。 
 ともにゆかりを持つ東大の小石川植物園でイチョウの精子発見という世界的な成果が生まれたのが1896年、日本の植物学はやがて世界をリードするまでに育っていく。

 名大博物館でかつて伊藤に関する展示を担当した元学芸員の野崎ますみさんは「江戸時代の成熟した本草学と西洋の植物学を合わせ、日本の植物学を開花させた功績は非常に大きい」と話す。伊藤が後継者と見込んで教育を授けた孫の篤太郎はイギリスのケンブリッジ大学に留学、日本人で最初に植物に学名をつけるなどの業績を重ね、科学誌「ネイチャー」が1899年に出した創刊30周年記念号で、南方熊楠と並んでアジアから2人の特別寄稿者に選ばれた。世界が認める植物学者になったのだ。
 伊藤はそれを見届けるかのように20世紀が始まった1901年1月、97歳で亡くなった。

 名古屋帝国大学は病院と医学校などを母体に1939年に創設された。新制名古屋大学となったのは1949年だ。今年はそれから80年、70年となる記念すべき年だ。2021年にはその前身、仮病院、仮医学校の創基から150年となる。この機会に、こうした先人たちの志に思いを馳せてはどうだろう。それをぜひ、明日へとつなげてほしいと思う。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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