名大ウォッチ

新聞社で長く科学報道に携わってきたジャーナリストが、学内を歩きながら、
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 5000人を超える犠牲者を出した1959年の伊勢湾台風はいうまでもなく、日本の災害史に残る巨大災害であり、2年後の災害対策基本法の制定につながり、名古屋大学工学部に土木工学科と建築学科ができるきっかけともなった。それからちょうど60年になる2019年、名大の減災連携研究センターを中心に、特別企画展やシンポジウム、ゆかりの地を訪ねる巡検ツアーなどさまざまな記念事業が行われた。この大災害の多様な側面が浮かび上がり、さらに強大な「スーパー伊勢湾台風」の来襲もいわれるなか、決して過去の話として片付けるわけにはいかないことがわかる。
 伊勢湾台風の経験を実際に被災した地域で継承していくことはもちろんだが、「スーパー東京湾台風」や「スーパー大阪湾台風」の可能性もあることを考えれば、地域を超えてもっと広く共有される必要があるはずだ。しかし、残念ながら、他の地域での関心は高くないのが現状だ。伊勢湾台風の経験を日本で、さらには世界で生かす。そのために名大が果たすべき役割は大きい。

木曽三川下流は高潮により至る所で破堤、53日目にやっと川の締切が完了した。
その場所にある伊勢湾台風記念館を訪ねる巡検ツアーの一行(三重県桑名市)

 大きな災害にはそれぞれ、忘れがたい顔がある。伊勢湾台風といえば猛烈な高潮だろう。港の貯木場から巨大な木材が大量に流出して建物を破壊し、海岸や河川の堤防が決壊して広範囲が浸水、4ヶ月以上も水が引かない場所もあった。この時の高潮を基準に堤防の高さなどが決められることになった。
 2019年秋の台風19号では千曲川が氾濫して新幹線の車両基地が水没するなど、関東から東北にかけて広範囲で記録的な数の河川が氾濫して甚大な被害が発生、1977年の沖永良部台風以来42年ぶりに名前がつく台風になりそうだ。台風で一定以上の被害が出た場合、翌年の5月までに命名されることになっている。伊勢湾台風の前後には1954年の洞爺丸台風、58年の狩野川台風、同年の宮古島台風など名前のつく大型台風が頻発した。19号も暴風域の大きさでは伊勢湾台風に匹敵するなど、伊勢湾台風並みの大きさや強さの台風が近年珍しくなくなっており、名前がつくような台風が相次ぐかもしれない。温暖化で台風は強大化するとされており、「スーパー」が登場しても不思議はない。
 減災センターは「伊勢湾台風から60年」記念事業を行うため、「迫りくる!スーパー伊勢湾台風に備えるために」としてクラウドファンディングを行い、200万円の目標を超える約250万円の寄付を約3ヶ月で得た。事業の中でユニークなのが、寄付者へのお礼の一環として行われた、高潮や河川の氾濫で被害を受けた地域や関連施設を訪ねる巡検ツアーだ。主催した減災センター副センター長で、河川工学を専門とする田代喬特任教授によれば、60年前の伊勢湾台風を現場から見直すことが目的だ。

鍋田干拓地の堤防上に復興住宅が並んだ1960年代後半の光景(堀田典裕さん提供)。

 最初に訪ねたのは、高潮被害を受けた代表的な場所の一つ、弥富市の鍋田干拓地だ。伊勢湾のほぼ中央部、木曽川の河口近くに位置する。第二次世界大戦後の食糧難と失業者対策のために開発され、前年にほぼ完成した。伊勢湾台風に襲われたのは最初の収穫を目前にしていた9月26日だ。高潮で堤防が決壊、住宅144戸はすべて流され、住民の約4割に当たる133人が犠牲になる大惨事となった。
 建築・環境デザインを専門とする環境学研究科の堀田典裕助教は、建築家で当時東工大教授だった勝田千利さんが設計した農村復興住宅に注目する。「冬暖かく夏涼しく、災害に強く、美しく、そして自力を使ってできるだけ金をかけない」という目標のもと、住民が自ら約2000個のブロックを積み上げて作るコンクリートブロック住宅を提案した。点在していた住宅を堤防の上の高台に集め、3年後には136棟が住民の手で完成した。現在も40棟程度が残っている。
 1階は物置兼作業場で、2階が住居、3階に飛び出た小さな部屋が子供部屋、あるいは避難室だ。濃尾平野には集落の周囲を堤防で取り囲んで水害を防ぐ輪中が知られており、母屋より一段高いところに避難用の水屋が設けられているが、3階は現代版水屋といえる。浸水を想定した造りになっている。
 いかにもモダンなデザインが目を引くが、堀田さんによれば、勝田さんはドイツのバウハウスの巨匠ワルター・グロピウスと交流があり、その流れを汲んだシンプルで機能的なデザインだという。
 建設当初は緑などさまざまな色に塗られていたという。そうした家が立ち並ぶ光景を思い浮かべると、現在のプレハブの仮設住宅や復興住宅のイメージとはずいぶん違う。堀田さんは、「現在ではおよそ想像し難い建物だが、被災時の自助努力と復興のあり方を改めて考えさせられる」という。
 復興が目的とはいえ、できるだけ快適な暮らしを実現しようという、日常生活にも目を配った長期的な町づくりの視点がある。こうした点から近現代の建築を見直す必要があると堀田さんはいう。

木曽三川公園センターから見た三川。中央の長良川と右側の揖斐川を隔てるのが宝暦治水でできた千本松原、
左端に木曽川が見える。

 伊勢湾台風の際に大規模な河川の氾濫に見舞われた濃尾平野は、木曽川、長良川、揖斐川のいわゆる木曽三川が運んだ土砂によってできた。肥沃な土壌に恵まれると同時に、西側の養老山地に向かって沈み込む地形のために三川は下流部で西側に集まって複雑に入り組み、水害の常襲地でもあった。江戸時代以来、海岸部の埋め立てが進み、日本最大のゼロメートル地帯でもある。輪中が造られたり、下流部で三河川が合流して大洪水を起こすために三川分流工事などの治水事業が行われたり、水との戦いが続いてきた地域だ。
 巡検ツアーでは、今も残る輪中堤や分流工事に関わる場所を訪ねた。養老町の多芸輪中には洪水記念碑があり、伊勢湾台風の約1ヶ月前にも豪雨に襲われ、近くの牧田川の同じ場所で堤防が決壊してそれぞれ4.65m、3.93mの水位に達したと刻まれている。最初の豪雨で1700戸の家屋が水没、1ヶ月してようやく水が引いたところを今度は伊勢湾台風に襲われた。有史以来という大水害になったが、犠牲者は伊勢湾台風の時の1人にとどまった。輪中堤が一定の役割を果たしたことと、水が来ることを前提として水屋に備えをしておくなど日頃からの水防災意識のおかげでは、と田代さんはいう。
 田代さんと堀田さんはこれまでもこの地域をそれぞれ訪ねていたが、一緒に下見に通ううち、見方が変わったという。堀田さんは日常の町づくりに関わる建築、田代さんは非常時の水対策を得意とする土木、その両方の視点で輪中を見直したら面白そうと、2人は新しい研究計画を立てて意気込んでいる。田代さんは「自分たちが一番学んだかもしれない」と話す。

木曽三川公園センターに復元された輪中の農家にある水屋。高台で頑丈に作られている。

 この地域の水との関わりについては、貴重な資料がある。名大附属図書館にある「高木家文書」だ。昨年夏、名大で初めて、国の重要文化財に指定された。高木家は美濃国石津郡(現在の大垣市上石津町)に居を構えていた旗本で、幕府の命により、木曽三川やその流域の治水を管理していた。江戸時代から明治初期までの10万点に及ぶ、質、量ともに第一級の文書や絵図から成り、とりわけ治水関係では1万4000点を超える全国でもまれな貴重な資料群となっている。
 戦後の混乱のなかで散逸の危機に瀕し、それを心配した仲介者によって名大で受け入れることになったという。以来、全学的事業として文書整理に取り組み、今世紀に入ってからはデジタル画像化と公開を進めている。
 岐阜聖徳学園の秋山晶則教授は名大附属図書館で長く、この文書を中心に流域の治水史を調べてきた歴史学者だ。記念事業を締めくくる12月末の特別シンポジウムに招かれ「木曽三川流域治水史をめぐって」と題して講演した。「伊勢湾台風により甚大な被害を受けた濃尾平野の歴史的背景」として、下流で合流して大災害を繰り返している三川を減災のために分流する構想が生み出された経緯や、治水工事をめぐって複雑に絡み合う利害の調整など、災害と向き合ってきた歴史を豊富な絵図や文書資料を使って紹介した。
 
 台風19号による千曲川氾濫の際、1742年の「戌の満水」と呼ばれる大水害の伝承が避難に役立ったと話題になったが、ちょうどこの年にも、三川分流の請願が行われている。しかし、幕府は関東甲信越を襲ったこの大洪水の復旧を優先させ、請願は入れられなかったという。宝暦治水として知られる治水工事を、幕府の命で薩摩藩が行なったのは1754年から翌年にかけてのことだ。
 宝暦治水は難工事で、「幕府の薩摩いじめがあり、指揮をとった総奉行平田靱負が責任を取って切腹するなど薩摩藩は大きな犠牲をはらいながら成し遂げた」とされ、薩摩義士として讃えられているが、秋山さんは「この話には資料の裏付けがなく、幕府対薩摩藩という認識の枠組みにも問題がある」と指摘した。こうした物語が登場するのは明治になってからで、背景には、地域名望家や民権運動の元活動家が関わった薩摩義士顕彰運動があったという。資料によれば、平田は病死したというのが、近年では研究者の共通した見方になっているそうだ。
 地元の岐阜県や出身地の鹿児島県ではその功績を称える声が強く、杉本苑子さんの直木賞受賞作「孤愁の岸」の主人公ともなった。この物語ゆえに、宝暦治水が知られることになった面があることも事実だ。
 秋山さんは「都合のよい解釈や物語化でなく、資料に基づいて考えることが重要」とし、記録資料を保全して災害文化の継承、創造、発展を図る必要性を強調して締めくくった。

助かった子を抱く母親(左)と息子を失った父親。
弥富市の伊勢湾台風殉難の塔はそのコントラストが印象的だ。

 伊勢湾台風は、そうした歴史を背負った濃尾平野と、戦後の経済成長の担い手として急速に都市化が進んでいた名古屋、それぞれの弱点を狙ったように襲いかかった。何がどう起こり、そこからどう復興していったのか。歴史を踏まえたうえで、これからの備えを考えることが必要だろう。
 次回は、これからを考える、名大ならではの取り組みを紹介したい。

著者

辻 篤子(つじ あつこ)

1976年東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科卒業。79年朝日新聞社入社、科学部、アエラ発行室、アメリカ総局などで科学を中心とした報道に携わり、2004〜13年、論説委員として科学技術や医療分野の社説を担当。11〜12年には書評委員も務めた。2016年10月から名古屋大学国際機構特任教授。

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